命短し恋せよ乙女、乙女老い易く恋成り難し

amazon ASIN-4790250539百本の足を自由自在に優雅に動かして歩くムカデが「どうやってそんなに上手に歩くのだ?」ってな事を聞かれて、それに答えようとして「52本目の足の次に28番目の足を…」ってな感じで、考えても考えても自分がどう動かしてるのかわからず、更に考えれば考えるほど歩けなくなる。って話が童話だか絵本だかにあると、どこかで読んだか聞いたかしたことがあり、調べてみた結果、おそらくこの『どのあしがさき?―くもとむかでのおはなし』と言う絵本が出典であろうことが判明した。
確かに、二本足の我々でも「この筋肉を縮めてこの筋を伸ばしバランスをとりながら体重を前に移動し、この足を…」などとどうやって歩いているのかを自分で説明することなんかできないし、そういう風に意識してしまうととたんに歩けなくなってしまう。
普段我々が生きている時に色々な感情を抱くわけであるけど、上の話と同様に、それを改めてどういう理由でそうなっているのか、本当にそうであるのか、などと考えてしまうと、その感情自体がどうも怪しく見えてくるし、そう意識していると終いにはその感情自体を抱けなくなってくる。


前に歩く、心臓を動かす、呼吸をする、などといった自律的な要素を含む行動は文字通り自律的な部分があって、自分の意志に関わりの無い所もあるわけやけど、感情や感覚というのも意思して抱くものではなく、否応なく巻き込まれて抱いてしまうものであり、意思を離れた自律的な部分がとても大きい。
自律的なシステムの制御下にある、例えば呼吸などは意思によってある程度制御できるし、訓練によってもその制御の質を向上させることができるけど、自律システムがすべて意思の制御を受け付けるわけでもない。鼓動やホルモン分泌などどうやって自分の意志で制御できよう?
同様に感情的な怒りや憎しみや喜びなどもある程度意思でも制御できるし、訓練による制御の質の向上も可能なように思う。つまり怒らない憎まない喜ばないの方向に近づけるようになるということである。こういう感情の制御の方向性をもって精神的な成長やとか鍛錬とか呼んだりする訳やけど、絶対に意思では制御できない感情もあるのはまた事実である。
その感情を抑えたり、本当で正しいのかを検討しようとするのは、本当にそういったことが可能なのかはどうかは別にして、心臓の鼓動や内蔵からのホルモン分泌に介入しようとするようなものであるように思うし、言い換えれば、自己存在の根幹をなす恒常性に疑問を抱くことでもあると思う。
かといって、感情のままに!となると日常生活に支障が出てくるので、そうは言わないまでも、その感情を開放してやるのもとても大事だと思った日であった。

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