変容の祝祭
好むと好まざるに関わらず生きていれば人間は変化するものであるけど、一方では全く変化しない部分もまたある。全く矛盾するような話ではあるけど、まぁ当たり前の話ではあるし、大抵のことはそうであるように、変わって欲しくない物ほど直ぐに変わり、変わりたいと望む物ほど変わらないのもよくある話である。
そしてそれは悲しいながら、人間の変容に関する大前提の一つでもあるように思う。
人が自分自身に対して変わりたいと思う時、また変わる必要性を感じた時、また何をやっても同じだと半ば諦めてしまう時、でもやっぱりもっかいチャレンジしてみるかと思う時、否定的にしろ肯定的にしろ自分自身が変わりうるという可能性を念頭においているわけである。
経験的に言って、意識的に変わろうと努力すればするほど凝り固まり、変わらざるを得ない状況になって初めて自分自身でも驚くほど鮮やかに変化するものである。
しかしその環境への適用である変化は、無駄骨折に見える日々の努力によって円滑さを与えられるものでもあるように思う。
敵がいないのに剣を研いでも意味が無い、しかし、敵が来てから剣を研ぐのでは遅すぎる。グズグズしてるとベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ!というわけである。
この日で私は一歳年を取った。誕生日というものはそれ自体が楽しかったり悲しかったりするのではなく、誕生日と言うことで引き起こされると期待される何ものかが、引き起こされたり引き起こされなかったりすることによって楽しくもあり悲しくも寂しくも虚しくもなることを理解した。
当然ながらこの一年で私はそれなりに変った部分もあれば変わっていない部分もある。
外的要因、環境の変化、他からの影響、色々な言い方が出来るけれど、この一年で私自身に起こった状況の変化による内的な変容は外からの事によって引き起こされたように見える。
しかしながら、外的要因や外的な影響が内的な物に刺激を与えたのではなく、外的な要因としてある刺激を内的な受容体が選択的に受け取ったとも言える訳である。
自分自身の変容について、外的なものと内的なものとして分けるのは余りフェアで無いような気がする。完全な外的要因のみによる自分自身の変化の可能性を認めるならば、その変容に対しての責任の所在はどこにあるのか?外にでもあると言うのだろうか?
人間、知らず知らずのうちに変わってしまい、また、いくら努力してもなかなか変われないものである。
私自身は常に変わろうと努力し続けて来て、それなりの成果と全くの徒労の二つを経験したわけであるけど、完全に変ってしまえないのをおぼろげに理解しながらでもそこに向かって変るように苦悩して努力し続けること自体に意味があるように思えるようになった。
私が変わらないことで迷惑を被る私の周りの人を度外視して自分自身に対してだけ言えば、変る事そのものよりも、変ろうと試みること自体に意味がある。
変ろうと努力し、変れないからこそまた変ろうと努力する。そういった無限ループは一種の循環論法である「思考の祝祭」に似た「変容の祝祭」である。
手段を目的とすること、それこそオタク道の第一条件である。
そしてなによりも、この身とこの身に関わる事に対して、この身で背負ってゆかねばならないと思った日であった。