福田正治『欲望を知る 脳科学の視点から』/ムリヤリ哲学として読む

先日、福田正治『欲望を知る 脳科学の視点から』を読んだ。

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タイトルのとおり「欲望」に関する知見を古代ギリシャの哲学から現代の心理学まで概観した後に、新しいアプローチとして脳科学で「欲望」を解釈しようというものである。

この本の最初のギリシャ哲学~心理学のあたりのまとまり具合を「お~っ。コレは分かりやすい!」と読んだ後に「脳・欲求の四階層モデル」なるものが提唱され、そこから脳科学的な話やら解説やらが始まるのだが、ギリギリ知ってるか知らないレベルの知識を前提にして書かれていたので、わかったようなわからんような、「お、おぅ…ちょっとは分かったかな…」という感じで読み進めていたけど、最後の方で唯識の八識とマズローの五段階欲求説を一緒に論じてるのを読んで、「うひょ~その発想はなかった!」と色めき立った。

いやいや全然脳科学の本として読んでないやんか!

でも、この本を読んで何かしら今まで自己の根源的な所に座していた「欲望」の根源のようなものが脳科学なるもので、脳の機能として掘り起こされつつあるような印象は受けたぞー

以前、鶴見済の『人格改造マニュアル』を読んだ時に、「人格」なんてものは、クスリやら電気ショック、自己啓発セラピーや洗脳などによって一時的ではあっても簡単に変わってしまうものであり、実は「人格」は個人にとって固定的でもユニークでもないのだと感じた事にかなり衝撃を受けたけど、同じようにこの本を読んで、「欲望」も「人格」と同じように、人間存在の根本に関わるものではなく、あくまでもオプショナルなものになるかも知れないということを感じた。

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「欲望」なるものを、人を見るときのその人を表す一つの指針として解釈すれば、その人について多くの事を知ることが出来るような気がするし、逆に人は自分の欲望をコントロールすることで自分がどのような存在になりたいのかを志向しているようにも思える。

哲学や心理学は「欲望」は人間存在の深い根源に根ざしていると考えているし、またラカン的に「人間の欲望は他者の欲望である。」ってな具合に自分に根ざさないものだと言っても、やっぱり「欲望」は個にとってどこかしらの手の届かない「根源」から湧いてくることには変わりない。「欲望」のコントロールは「根源」から湧き出した後のすでに「欲望」という形をとってしまったものに対して行われる。

しかし、脳科学が「欲望」はただの「複雑なシステム」です。とぶっちゃけてしまったら、今まで「欲望」の「根源」とされていたシステムそのものをコントロールの対象にするしかないだろうし、もしそうなれば「欲望」が「個としての存在」を規定するものだという見方はとても薄れることになるだろう。

「性格」とか「欲望」が固定的で流動性の低いものだとされるからこそ、そこに価値判断が生まれ、その価値によって人はそこに呪縛されるのだ。いやいや呪縛とか言うたらあかんけど。

しかし、個人を一つのあり方に縛り付けるものとしての「性格」とか「欲望」なるものが、流動的で可変性を持つものであり、実は全く固定的なものではないと捉えることは、個人にとっての何かしらの実存的な重みを軽くする考え方ではないだろうかと思う。

って「実存的な重み」とか言ってるし、うん、やっぱり全然脳科学の本として読んでないわー。だって文系だもの。

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