プチ離人

休みの間は某補完計画のようにふやけて溶けきったような、自分と外の境界線が殆どないが如き、自分自身を解放しきった暮らしぶりであっただけに、長い休みの後に仕事をすると自分自身が自分自身で無いような、異物に囲まれたような、変な違和感を感じる。
違和感といいながらも、それは「自分自身が自分自身で無いと感じる自分こそが自分である」という逆説的なやり方で、自分が外部と独立した存在であることを感じさせてくれるわけで、当たり前のことを当たり前に感じているというレベルで、そのこと自体はそれはそれで悪くない気分でもある。


他者や外の世界とのコントラストによって自分が一個の存在でしかないと認識されて意識される事が喜ばしい事なのか悲しむべき事なのか、という事は状況に応じていくらでも変わりうるものであるがゆえに、実はそれほど大した問題でないと思うようになった。
それよりも自己の存在を意識すれば意識するほどに浮かび上がってくる他者であるとか外の世界が自分にとって不可避なものである限り、それらと如何に関わるべきかという事の方が、実生活のレベルでは大きな問題になってくる。
それらとの距離感であったり態度であったりなにかしらを、入れ替わり立ち代り押し寄せるそれらに対して決定して修正して調整する事は、演算の方向にエネルギーを使う、実はなかなかに重い処理である事を意識する。
色々な事に不安を感じることは多々あるけど、あくまでそれは不安でしかない。不安を感じることに不安を抱いてしまえばもうどうしようもない無限ループに陥る。
眼前に立ちはだかるものに気圧されて立ち竦んで動けなくなるくらいなら、目を閉じてしまえば良い。
そうすればそれはあたかも消えたかのように見えるだろう。
消えたように見える事と、本当に消えた事の間にどれほどの違いがあるというのか。
「~のように見える」を「~である」の代わりに使う事はある種の生活の知恵であろうと思う、長い休みが明けた月曜日であった。

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