carpe diem

「死を思え」「死を忘れるな」と言う意味の「Memento mori」と言う言葉は、当初の古代ローマ時代では「carpe diem」(今を楽しめ)の方向性を持った趣旨の言葉だったらしい。いずれ死ぬから、今を存分に楽しんでおこうというわけである。
しかしながら、その「Memento mori」はキリスト教世界の価値観に触れて、大体今使われるような「世の中は全て空しい」を含意するようになったそうである。
で、人生や世界が苦でしかなく生きる意義や価値が本質的に無いとすると、今述べた、何故かこの世の楽しみは全て空しいとするペシミスティックなユダヤ/キリスト的な方向性に行くパターンが多いけど、古代ローマ式に「carpe diem」の方向性にも行ける筈である。


この二つの方向性を分けるのは「空虚」であるものはなにもいらないとするか、「空虚」でも楽しいからええやんとする方向性の違いであろうか。
まぁ、ルネサンス的、バロック的とか言えなくないにしても、いずれにせよ「空虚」であればいらないとする価値は、まだ空虚でないものがある筈だとして求めていると言う事になるわけである。
当然そこでユダヤ/キリスト教的には「空虚」でない価値がある場所として世界を超えた世界が設定されているわけであるけど、それだけを除外してペシミスティックな見方だけを取り入れてしまうと本当に救いが無くなってしまう。意味が無い上に苦しいだけではなんともやりきれない。
そういうわけで、一切皆苦な世の中で「carpe diem」を体現するために、前後不覚になるまで浴びるように焼酎を飲んだり、オムレツ製造するだけのために鉄フライパンを買い込んだり、自転車をの部品を取り付けるために仕事を休んだり、そういった行為はむしろ称えられてしかるべきであると思った。

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