それでも、「はじめにことばがあった。」
2007年10月21日
この年になると言語化できる物事は実はそれほどたいした事じゃなくって、非言語的なレベルの智や感覚の認識こそが大事なんだと言う事がわかってくる。
それは大事ではあるけど、非言語的なモノであるがゆえに言葉して他には伝える事が出来ず、個人的な認識のレベルに留まる。更には非言語的であるがゆえに自らの中にすら何らかの概念として定位して留めておく事も難しい。
『カラマーゾフの兄弟』を50回は読んだと言う御仁が「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と語っていたけど、語りえぬものについては、沈黙したくなくても沈黙せざるを得ないわけである。
それでも我々の中には形而上的な荒野が広がっており、そこに生まれる非言語的でしかありえない語りえぬものを語ろうと勤めてきた。その度に語りえぬものは結局どこまでも行っても語りえぬものでしかない事に、語ろうとした方は絶望的になる。
それでも、語りえぬものが語りえなかったとしても、語りえぬものが語られようと試みられたこと自体に、語りえぬ部分で価値を感じることもまたあるし、そこには語りえぬ理由があるわけである。