多様性と解釈の違いと人と人との溝は紙一重

前日の夜中、日付が変わったくらいから新しく出たっつんで買ってきたグイン・サーガの118巻を読んでしまい、読み終わったあともだらだらしており寝たのが5時前ということで、この日は寝不足かと思ったけども、そうでもなかった。
原子核分裂の連鎖反応と臨界状態になぞらえて自分の事を書いたつもりやったけど、他の人や自分の事だと思う人が多かったようでちょっとびっくりする。しかしながらおもろいのであえてそのままに。
仕事後に久しぶりに「いいちょ」の塩ラーメンを食べて美味しかった。寝る前にデヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」を観てなんとも言えない気分になった。


最近の科学というか量子力学の世界では「観測」が「存在」に直接的な影響を及ぼしているらしく、ある事がAであるかその逆のBであるかは未観測の状態では二つの状態が交じり合った状態であるとしか言えないらしい。
有名な思考実験である「シュレーディンガーの猫」でいえば、箱の中の猫は観測するまでは生と死の中間、あるいは生と死の混ざった状態にあると言う事らしい。
我々の意思や観察に関係なく真理は存在するという見方が根底からひっくり返ってしまうような話であるけど、結構人間はそんなものだと思う。
自分について、他人について観測して初めてその事実が発生する様に見えるし、また自分自身で認めて初めてその事実が存在する事になる。
自分自身がAである。というAの存在は自分自身が自分自身を観測し、また認めて初めて存在となる。言い換えれば認めなければ存在しないと言い切る事が出来るわけであるけど、他人の目と言うものがある限り、他人にとっては自分と認めないBは自分の中に存在するわけで、エヴァレットの他世界解釈からすれば分岐した別の世界に存在するという事になってしまう。
それを多様性と呼ぶか、解釈の違いと呼ぶか、人と人との溝と呼ぶかは難しいなと思った。

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