これでいいのだ?

この日で某氏が最後っつんでちょっとした挨拶をする。んでもってちょっとだけ喋る。
死んだ人間に大抵の事は許せるというように、去って行く人間にも大抵の事は許せるものだ。
しかしそれとは別に、その個人の特定の属性を疎ましく思うことでその個人を否定的に思っていても、その個人そのものと向き合って喋っているとその疎ましさや否定的な気持ちがぐらっと揺らいで憐憫の情が湧き上がって来る。
その人本人が変に無防備で開けっぴろげなところが余計にこちらの変なポイントを刺激する。
こうなるのが本当にいい形なのか?こうなる前に何か出来たのではないか?なんとなく限りなく後悔に似た感情を抱く。


特定のある人を概念として憎悪する事は容易であっても、その人個人そのものを面と向かって憎む事は容易ではない。
近づけば近づくほどその個人の憎むべきポイント意外のものが見えてくるし、またその個人の背景にちらつく色々なものが見えてくるからだ。
逆に、印象なりイメージが良い人も、余りに近づいて見ると、良い部分でないところが見えてくる事もあるわけで、人間同士の距離感は難しいものである。
直接的な利害の対立が無かったわけでも無いし、こちらが見て相手を非難すべき点はとても多かった。しかし向こうからすれば私に対してもそうであろう。あるいは相手からすれば私などそうするだけの相手で無かったかもしれない。
真実はどちらにありや?という良い方は簡単やけど、立場の違いとも言えるし、客観的に見ればどちらの言い分も等価である。
たとえ何も出来なかったとしても、何をしても無駄だったとしても。ちょっとした後悔が皆無ではないし、自分の態度やら言動に反省すべき点は非常に多い。
そういう意味でちょっと後味が悪くもあったりした。もう少しちゃんと喋っておくべきだった。とも思ったし、こんな事が無ければ良いのにな。とも思った。

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