部屋を片付け「色々な事」を思う

部屋の大掃除というよりは部屋の片付けである。
ジョスカン・デ・プレのミサ曲をかけて片付けをしながら過ぎ去った一年をそれなりに考える。
色々な事があった。と自分では思うけど、色々な事が無かった一年など今までの一生に一度たりとも無かったし、これからもそうであろう。でも自分の中の「色々な事」は他人から見てとても見えにくいものであるのは不思議なようでいてあまりに当然だ。他人の「色々な事」を私がどれだけ理解しているだろう。
自分の中で色々な事があった。と考える事とは又別に、誰の中でも少なくともこれくらい同じ色々な事があったのだろう。
自分の欲望を追求すればするほど不幸になってゆく人間なる存在は哀れなものである。なによりも、それを理解していながらもそこから脱する事が出来ずにそうせざるを得ないところが余りに哀れである。
そう考えると人間一般に対して同情と容赦の余地は大いにある。ほとんどの場合その同情と容赦は大抵自分にしか向かないものであってもだ。
順番を逆にして言えば、自分にそういう感情を向けられない人間がどうして他人にそんな感情を抱く事が出来よう。と言う事だ。
そういえば最近「人間は哀れなものである」と感じる機会が多くなったような気がする。
片付けの合間に映画を観て、北京鍋でヤキソバを作って食べる。結局ほとんど一日仕事になってしまった、大方付けの日であった。

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