ねぇミーム、こっち向いて。
ネットを徘徊しているうちに、二回自殺未遂して、三回目にとうとう成功してしまった人の遺書ならぬ遺ブログをいつの間にか読んでいた。
一度目は練炭自殺で失敗、二回目は地下鉄に飛び込んで右腕と左足の指だけを失って失敗、三回目は薬飲んで雪山で凍死。
本人が死んでしまった後もそのブログが公開され続けるというのはなんか不思議な感じがする。死ぬ直前の遺書となった彼のエントリーに膨大な量のコメントがついているのを見ると、リチャード・ドーキンスの言った「ミーム」なるものの存在を感じる。
俺が「自殺はいけない!」などとステレオタイプに言うような人間では決してない事と、どちらかというと自殺願望者の部類に入ることを前提した上で、誤解を恐れずに云うと、彼は自殺を成功させてしまうことで彼のミームをより強いものにした。強力になった彼のミームがネット越しに遺伝し、遺伝先の表現形となってその人を自殺に追い込む。という事も大いにありうるだろう。自殺することで現実的に消えるはずだった人が、本当に自殺してしまったことによってより強い力で非現実的な世界で存在感を増してゆくという絵柄は、一般人でも「表現」の場を簡単に持つことを可能にしたインターネットの存在があるお陰だろう。そのお陰で固体を維持しない方向に働く、本来なら絶対に拡散しない筈の「ミーム」まで簡単に伝播するようになった。
そう考えるとなんだか薄ら恐ろしい。
俺の書いた拙文でも、それを読んだお陰で嫌な気分になるどころか、激しく鬱になったり、彼女(彼氏)と喧嘩したり、柱で小指を打ったり、醤油をこぼしたり、という不幸がないとは言い切れない。いくら現実感のない俺とはいえ、そこは精一杯の想像力を働かせる必要があるだろう。
「私が平和をもたらしに来たと思うな。私は剣を投げ込みにきたのだ」などとは決して言えるような器ではないゆえではあるが、なんだか拙文を読んで下さる有難い方がいらっしゃる事を感謝すると同時に、それなりの責任のようなもの勝手に感じている。
そう考えると勝手気ままに雑文を書き散らすという行為もなんだかバチ当たりな物に思えて恐ろしいものにすら感じる。
何よりも恐ろしいのは、2004年の自殺者が32325人(日に88.5人)いる事と同時に、火鉢で作った「ヤキイモ」を貪り食いながら、自殺した人の日記(ブログ)を読む人間がいるほどに自殺が日常に溶け込んでいる事だろうか…
ご冥福を願っております。
ちょっと考えました。
昨日書いてて、公開するの忘れてました。(笑)
今、ブログを持ってる人はかなり多いと思います。
大抵の人が軽いノリでブログをやってると思います。
そういう私も…