成長したけど変わらない
久しぶりに古い友人にあった。もう何年ぶりか分からないくらいやけど彼が彼であることには変わりなかった。
考えていることや見ている事やそれらに対するスタンスはお互い全く違うようにも見えるし、それぞれの方向性にそれぞれのやり方で根と枝をめぐらせているのが良く分かった。
昔から日常的に人に聞くことにしている質問で、殆ど初めて私の聞きたい意味でのちゃんとした答えを聞いてとても驚いた。
また、具体的でない問題を具体的なモノのレベルで扱う感覚にとても感心した。
今まで彼にはとても色々な意味で感謝の念を抱いて来たけど、彼の個人性による部分に大してこれほど感心したのは多分初めてかもしれない。
色々なことに対する自分の立場や意見は、それらの内容の是非よりもそれらを持っていること自体に意味がある。という価値の方向性も見た気がする。
逆説的やけど私とは全く違う彼への肯定の念が自分自身への肯定の感覚を生み出すのは不思議である。「自分は間違っていなかった」とか「これでいいのだ」は同時に「これではいけない」という感覚を伴って当然なのだ。
それは人間存在の矛盾ではなく、人間の使う言語が先天的に含んでいる矛盾と表現の限界に過ぎないように思う。我々が言語として意思伝達と思考に使う論理はある特定の「系」や「次元」をのみ表現できる手段に過ぎないのだ。
「成長したけど全く変わっていない」が人間が自力で論理と倫理を用いて目指し得る最高地点ではないだろうか。そしてその人間存在の「全く変わっていない」部分に当たる次元を言語のレベルで取り扱うのは無理かもしれない。
結局我々がそれを問題にする場合、それは取り扱えないものとして論理で受け入れてしまうか、論理を捨ててそこを目指そうとするかの二つの対応しか出来ないのじゃないだろうか。
ワインをハーフボトル1本以上の量は飲んだだろうか。私にしては致死量ともいえる量を飲んで結構よれよれした土曜日であった。