楽聖ルートヴィヒは仏陀となり涅槃へ?

iPod shuffleを触っていて久しぶりにルートヴィヒのピアノソナタを聴いた。最近はずっと弦楽四重奏ばかり聴いていたけど、ピアノソナタに出ているルートヴィヒの個人性に久しぶり触れた気がする。
彼は古典派からロマン派へと繋ぐ位置にいるような事を言われるけど、古典派のように権威寄りではなく、ロマン派に感じるような剥き出しの自我でもなく、様式美にそって表される抑制された「個」はどちらにもない魅力を感じるのだが、結局の所、俺はベートーヴェン個人に魅力を感じているのやと再認識した。


彼はピアニストとして音楽活動を開始し、最後のピアノソナタの二つである31番と32番を死ぬ5年前に書いた訳やけど、聴けば聴くほどその二つのソナタで彼は個人としての何らかの結論というか認識に達したように思えてしょうがない。
彼が死ぬ一年前、病気がちで殆ど死にかけていたような状態で作られた後期弦楽四重奏群は余りにも完成度が高すぎ、余りに高みに登りすぎてちょっと不気味な感すらある。彼特有の泥臭さは殆ど感じないし、余りの純度の高さに違和感を覚える。
限りなく澄んだ諦念の塊のような感じで、本人は平気やけど見ている方はもうどうしようもなく悲しい。これは完全に倒錯した美やと思う。はっきり言ってなんかもうこの世のものとは思えない。なんというか彼が余りにも遠く感じるのだ。
この純粋な精神体のような状態が彼の精神状態だとしたら、これはもうある種の悟りと言ってしまっても良いのではないか?言うまでもなく、普通の人間には遠すぎる。
ピアノが彼にとって特別な楽器だというのは有名な話やけど、俺にとっても彼のピアノソナタは特別であり、彼が死ぬ5年前という微妙な時期にそのピアノを使った最後の二つのソナタで何を言い切ってしまったのか、彼が人間としてどんな認識に達したのか、それをとても知りたい。
それでも、その結果後期の弦楽四重奏のような精神状態になり、悟りのような認識に到達するのだとしたら、そんな事は余り楽しい事でもなさそうやし、ルートヴィヒ本人も余りに人に勧めたりしないやろうなぁなどと思った。
悟った人にとっては「悟ったところでどうと言う事はなかった。別に悟らんでも良かった」と言う事になるらしいけど、なるほどそういう事の一端をかいま見たような気がする。

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