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2009年2月14日

映画 : 「ゾンビーノ」 / ゾンビの友情愛情物語 / 新しい奴隷制度「I’m ゾンビーノ」 / バイオハザードシリーズ最新作?

ずっと前から観たかった「ゾンビーノ」 (2006/カナダ)をやっと観た。
放射性の粒子によって死体がゾンビ化する現象が起こり、世界中の死体が蘇って人々を襲い始めることで「ゾンビ戦争」が勃発した。
殺された人もゾンビとなって加わるゾンビの陣営が爆発的に増加する中、徐々に押されつつある悪い戦局を「ゾムコン社」がゾンビの弱点を発見して一気に解消した。
「ゾムコン社」はそのテクノジーを使ってゾンビがうろつく世界から人間達を隔離し、更にそのテクノロジーを民生化して「ゾンビが人を食べたくなる衝動を抑える首輪」を開発する。
死んだ人は自然に残留放射性粒子によってゾンビとして蘇り、また外の世界から捕囚してくればいくらでも供給されるゾンビを意のままにコントロールできるようにして労働力とし、より豊かな生活を営めるようになった世界から物語が始まる。
孤独な少年とペット用ゾンビとの心の交流、そしてそのゾンビと少年の母のほのかな恋の物語である。


この映画はゾンビ戦争やらゾムコン社のテクノロジーだけでなく、ゾンビは人間の敵で、征服されたゾンビは被差別階級として忌むべきものでありながらも、主要な労働力として使う社会体制が整っているような状況が前提されている。
設定上はパラレルワールド的な1950年代アメリカの郊外を想定しているらしいけど、そういった社会体制での「ゾンビ」のあり方は戦争に負けて捕虜にされたギリシャ・ローマ時代の奴隷のようなものである。
ゾンビをペットや労働力として使う社会システムは、戦争捕虜から人権を剥奪して純粋な労働力として使う、現代から更に進んだ奴隷制度であろう。
そんな社会で奴隷であるゾンビに友情や愛情を抱いたりするのは当然モラルに反する。
当然この映画でのメインのテーマはゾンビに友情と愛情を抱く少年とその母の、社会的なモラルと人間としての当然の感情の狭間で引き裂かれるありようとなる。
映画の最後は人間とゾンビの対等な関係としての社会の可能性が示される良い幕引きであった。
ローマで反乱を起こした剣闘士奴隷の映画で「I'm スパルタカス!!」なる心の叫びがあったけど、この映画では「I'm ゾンビーノ」いった所であろうか。
ただのコメディーの皮を被りながらも、人間だけではない「あらゆる存在の平等」のテーマに肉迫したなかなか含蓄深い映画であった。
わざとかたまたまかどうかは分らないけど、「放射線による粒子」のところを「人間に感染するウィルス」に、「ゾムコン社」を「アンブレラ」に置き換えれば、映画の「バイオハザード」の世界と全く同じである。
地上の殆どを占めるゾンビがひしめく荒野の一角に、金網で隔離された人間の居住区が存在するといった世界観は、「バイオハザード3」の設定そのままであるし、ゾンビをコントロールする全く同じような研究も「バイオハザード3」で既にアンブレラが行っていた。
この「ゾンビーノ」を「バイオハザード4」としても、ゾンビ系コメディ映画がバイオハザードシリーズであることは別にして、設定やストーリー的には全く違和感がない。
ゾンビ現象のもっとも不幸で悲劇となりうる側面は、家族や愛する人がゾンビ化して自分を襲い、ゾンビ化した自分が家族や愛する人を襲うところにあるだろう。これは「ゾンビーノ」含めありとあらゆるゾンビ映画に共通の項目である。
しかしこれは「ゾンビーノ」のテクノロジーで条件付ながらも解消されうるし、映画内では現に解消されていた。
バイオハザードではゾンビ化した人間は動かなくなるまで破壊する以外なかった。しかし「ゾンビーノ」ではそんなゾンビも社会の一員、家族の一員として暮らすことができるのだ。
この人間とゾンビの共存の可能性を探る方向性は、いずれ製作されるであろう本家の「バイオハザード4」よりもヒューマニズム溢れるベクトルを持っているのではないだろうか。
と、ちょっと大げさすぎる感想を書いてみた。

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