「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」政治的にも倫理的にも社会的にも正しい言説で真顔で嘘をつく大人の醜さと恐怖
映画「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」を観た。
ナチスがユダヤ人の絶滅収容所を運営するにあたり、絶滅対象者の大量輸送における最高責任者のような立場であった、当時親衛隊中佐のアイヒマンは戦争終結後逃亡していたが、十数年後にアルゼンチンでイスラエルのモサドに拉致されエルサレムでナチス時代に行った絶滅収容所運営についての法廷に立つこととなった。
何百万人ものユダヤ人を虐殺した悪魔のような男を裁く法廷として始まった裁判で明らかになったのは「命令されるまま任務を忠実に行っただけだ」「ユダヤ人殺害に関しては私の管轄ではなかった」「私にはどうすることも出来なかった」「当時最も美徳とされる良心に従っただけだ」と役人として抗弁するアイヒマンの姿だった。
実際のところ彼は優秀な役人として各国からユダヤ人を効率的に絶滅収容所に送るためのシステム構築を行なったからこそナチスはあれだけ大量のユダヤ人を殺すことが出来たのだ。彼がもう少し真面目でなければ、あるいは優秀でなければ、ナチスはユダヤ人をはるかに少ない人数しか殺せなかっただろう。
この裁判を傍聴したユダヤ人でハイデガーの教え子としてドイツで哲学を学んだ、私の最も敬愛する政治哲学者のハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』でアイヒマンは極悪非道な悪魔のような存在でもなんでもなく、「出世と昇進にしか興味がなかった」「小心者」「愚かでは無いが無思想」「虚栄的で虚言的」「想像力の根本的な欠如」といった言葉で表されるような小物でしかないと断じている。
そしてそんなアイヒマンが人類史上最も大きな罪を犯し得ることができたことこそが問題で、それを考えることは「ユダヤ人殺戮が…将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイドのおそらく小規模な、全くとるに足らないような見本となる」ことを妨げることができるだろう。と述べている。(その本についての感想はこちらとこちら)
この映画は300時間にも及ぶ膨大な裁判映像から、このハンナ・アーレントの趣旨に沿って2時間の映像として編集されたものである。
私は昔その本を読んで衝撃を受けたけど実際に映像を見るとまた彼女の本とは別の衝撃があった。
死刑という結論ありきの裁判で傍聴人から怒号を浴びせられ、感情的に詰め寄る検察や裁判官やほとんど弁護をしない弁護士からの質問にアイヒマンは防弾ガラスに囲まれた被告人席から理論整然と感情を抑えて淡々と紳士的に戦争時代の役人としての立場を淡々と述べる。
彼の主張を聞いていると、おおよそ組織というものに身をおく人にとって、もし自分がアイヒマンの立場に置かれれば彼ほど上手くは出来なくても彼のように任務を遂行しようとしてしまうだろうという想像が浮かび上がって来るだろう。一歩間違えば自分もアイヒマンの立場に立ってしまうだろう恐怖、ただの一介の優秀な組織人が人類史上最悪の戦争犯罪人となってしまう。それこそがこの映画の、そしてハンナ・アーレントが警告したキモのような気がする。
アイヒマン自身がのべる映像の最後の方のこの言葉
悔いても誰も生き返りません。後悔とは子供のするものです。重要なのはこの事態を将来起こさぬ方向を探ること。もし許されるなら私は裁判の終結後にこの件を書籍の形にしてすべて包み隠さず歯に衣着せず書き記し後世への警告としたいと思います
自分が加担した虐殺をむしろ一番自分が防ぐのに相応しい人物であるかのように述べる言葉、裁かれている本人が裁く立場であるかのように述べるこの言葉、最初から最後までアイヒマンの述べる言葉はどれ一つとして「悪」を感じさせる言葉はなく、逆に「紳士的」で「理性的」であり「道徳的」ですらある。これがとてつもなく怖い。
あくまでもフィクションである「映画」はやはり最終的にはフィクションでしかない。そこが良いところでもあり救いでもある。
しかし、この映画はリアルの裁判映像でありこれが自分が存在する現実と地続きであるというとてつもない重さがある。
政治的にも倫理的にも社会的にも正しい言説で真顔で嘘をつく大人の醜さと恐怖をとことん味わう映画である。
最近、政治家、宗教者、会社人などがメディアで真顔で嘘をつくような、事実とは全く違う、明らかにそう心で思っていないとわかる言葉を口にしているのを見ていると感じる違和感や嫌悪感は、戦争末期に予備役の自分が戦場に出ない為にユダヤ人を絶滅収容所に送る任務を積極的に行っていたこのアイヒマンの抗弁に近いものがある。
結局人は自分自身を表現するのにその言葉ではなくその行動でしか表現できないのだ。と深く確信した。
とここに言葉で書いておこう。