「さかなのこ」(2022年製作の映画)/さかなクンの愛の物語

私はさかなクンが好きだ。彼の足元にも及ばないながらもかなりの魚好きで地味な淡水魚好きであると自認している私から言わせてもらえば、それほど魚に興味のない人、例えばトウヨシノボリとヌマチチブを一見して判別できない程度のレベルの人は彼がどれだけすごいかたぶん永遠にわからないだろう。私は彼が大抵の魚の鰭条や側線の数まで把握していると知った時は畏敬の念を通り越した恐怖のようなものを覚えた。
彼の魚に対する愛の深さ、自分の好きなものをどこまでも知ろうとするその愛の深さ、そしてヒトを超えたような知の領域の存在に恐怖を覚えたのだ。たぶんそれは神の愛の深さと英知に対して感じるであろう恐怖に近いものではないかと思っている。
大抵の人間が彼のことを半分馬鹿にしつつもそれなりに愛すべきキャラだと考えているのは彼の好きなものがほとんど誰の利害にも抵触しないからだと私は思っている。
しかしもし彼が「さかなクン」ではなく「大量破壊兵器クン」だったり「優勢思想クン」だったりした場合、今の世界はもっと違ったものだったかもしれない。

ということで、私の大好きなさかなクンを題材にした映画「さかなのこ」を観た。
主人公の「ミー坊」はさかなクンをイメージさせるキャラクターではあるのだが、さかなクン本人が明らかに不審者である魚好きの無職の「ギョギョおじさん」として出演している。
この映画は純粋な「さかなクン伝」ではなく、彼の半生のエッセンスをベースにした一つの創作であり宮澤正之氏がさかなクンになれずにギョギョおじさんでしかなかった次元のパラレルワールドにおいての「さかなクンアナザーストーリー」あるいは「さかなクン神話」の一つも言えるものであろう。
この映画を見て何かを「好き」だということがどいう事なのかというのを本当に考えさせられた。
私も子供のころにこの映画で主人公が読んでいたのまったく同じ小学館の図鑑を持っていた。さかなクンが最初はタコが好きで次第に魚にひかれていったように、私は最初は昆虫が好きだったが中学生になって釣りをするようになると淡水魚が大好きになり魚博士になりたくなった。そして時を経て一方はただ魚を愛し続けさかなクンになり、一方は色々なものを転々と好きなりそしてIT技術者となった。
同じ図鑑を読んで同じものを好きだったほとんど年齢の変わらない二人の人間がこれほど違う人間になるとは驚く。彼を見ていると私が魚が好きだったと思っているのはただの気まぐれレベルだとしか思えないし、私が大好きで楽しくてしょうがない職業のITエンジニアも「IT君」と言えるほどの愛はとてもとてもないなと思う。

何かを深く好きになるというのはとても怖いことでもある。何かを好きになり周りと隔絶してゆけば行くほどその孤独も深くなるし、その愛が深ければ深いほど受ける傷も深くなる。そしてその愛が大ききれば大きいほどそれを失った時の苦しみもまた大きい。
この映画のミー坊には師であり目標でもあったギョギョおじさんがいたが、現実の宮澤正之氏にはそのような模範となる存在はなかった。彼は独力で未開の地を切り開き過去にまったく存在しなかった「さかなクン」という概念と存在を生み出しそれを職業としたのだ。
彼は今「さかなクン」としてとても楽しそうでとても幸せそうに見えるし、学位も得て正真正銘の「お魚博士」となり夢を叶えた。しかし、今に至るまでの彼の孤独と苦しみはどれほどのものだっただろうかと思う。たぶん、常人には耐えられない道のりだろうと思うし、そして何より彼の愛は愛する対象から何の見返りを求めない圧倒的なものである。ほとんどの人間は彼のようには生きられない。
しかし一方で何かを一身に愛する姿というのは人の心を深く打つ。たぶんそれは自分の周りには存在しない深い愛にあこがれる気持ち、つまりはさかなクンが魚を愛するように自分も愛されてみたいそして愛してみたいという反応なのかもしれない。
そう、さかなクンの物語は愛の物語なのだ。

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