アゴタ・クリストフ『どちらでもいい』

今年の9月に出たばかりのアゴタ・クリストフの短編集『どちらでもいい』を読む。
アマゾンでは

夫が死に至るまでの信じられないような顛末を語る妻の姿が滑稽な「斧」、著者自身の無関心を表わすかのような表題作など、全25篇を収録。祖国を離れ「敵語」で物語を紡ぐ著者の喪失と絶望が色濃く刻まれた異色の短篇集。

と紹介されているが、訳者のあとがきによると、これらの物語は1970年代から1990年代前半のアゴタ・クリストフのノートや書付から発掘されたものらしい。
『悪童日記』が書かれる以前から、三部作をちょうど書き終える頃までの時代のものとなり、アゴタ・クリストフが中々次作を出さないから本来表に出なかった筈ものが世に出たというところだろう。


amazon ASIN-4152087331三部作と同時期かそれ以前に書かれた文章ということで、例のごとく感情表現の語彙を一切使わない文体が徹底されており、冷め切った視点と諦めきったものの見方と乾ききった感受性は、人生が無であり苦でしかないという立場をはっきり表しており、何度アゴタ・クリストフの文章を読んでもこの息苦しさには慣れることができない。
訳者はあとがきで「この短編集はより完成度の高いA・クリストフ作品と関係づけながら味読されるときにこそ存在価値が上がるのにちがいない。」と延べて、この短編集が単独の書物としてはほとんど価値が無いことを暗に認めている。
しかしながら、逆に言えば『悪童日記』三部作を読んでいるからこそこの短編が三部作の欠片を薄めたかのような味気なさを感じるだけであり、短編としてはテクニカルな職人芸的な部分は殆どないけど、逆にそれが書き手の強烈な個性と思念がダイレクトに伝える効果を上げているように思えるし、アゴタ・クリストフの強烈な個性は伝わってくる。
もちろんこの短編を読んで『悪童日記』三部作を読まないのは薦められないけど、それほど悪いともは思わない。
それでも確かにむやみに人に薦められる本ではなく、彼女の世界に少しでも触れたいと言う人向けの本だという気はする。
って結局同じ事言ってるな…
中々次作を出さない、ほぼ断筆状態に近いアゴタ・クリストフに対して、ファンがやいのやいのと早よ次作書けよというプレッシャーを与えているようにも見える現状だが、三部作の次の作品である『昨日』でも、自伝的散文である『文盲』でも彼女はもう書いてないと言うことをやたらと強調している。
もう燃え尽きたいうとんねんからそっとしといてやれよと、円谷幸吉のような目にあわせたらいかんよ、と思う土偶も次作が出たらぜひとも読みたい。と思うのであった。

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