『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹

この本は三部、三冊に分かれた長大な長編ということになっており、一部と二部は1994年4月12日火曜日発行と珍しく曜日まで書いてある。これはこの本の下書きにされた短編の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を意識してあるのはわかるけど、三部の1995年8月25日金曜日はよくわからん。金曜日がなんか繋がりあるんか?フライデー?なんで??
発行された時期は丁度、一部・二部と三部の間に「阪神淡路大震災」と「地下鉄サリン」事件をはさむことになる。だからといって別にその影響があるって言うんじゃなく、そういう時期に書かれた本だという事が言いたい。つまりは大分前の本だということ。
先日「村上春樹の中期以降の作品を読み直すことに決めた」って書いたけど、その趣旨は村上春樹がどう変わったか。『ダンス・ダンス・ダンス』以降で扱おうとするテーマが何になったのか。という所に興味を持ったから。他人の評論を読んで解った気になるのではなく、実際に読んでみて考えようと思ったから。本読みとしては不純な動機かも知れんけど、まぁこの本の感想もそういう方向で述べられる事になる。


画像は文庫版やけど実際読んだのはハードカバー版(アマゾンに画像が無いので…)
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『ねじまき鳥クロニクル』は今までの「失う物語」から「取り戻す物語」へと変化したという文脈で語られることが多い。まぁそれは村上春樹自身がそう言っているから。というところもあるけど、主人公の「岡田トオル」は首尾一貫してその妻である「クミコ」を取り戻そうと奮闘しているわけやし、実際にそういうことになるだろう。でもクミコを「取り戻した」って言ってもちゃんと帰ってきてるわけではないし、終わりの時点で笠原メイ以外の人間は全員どっかに行ってしまっている。これを本当に「取り戻す物語」だけで括っていいのか?と個人的には思う。確かに方向性としては「取り戻す物語」やけどね。
そして第一部と第二部で完結するつもりだったのに、「つけたし」のような形で第三部が刊行されたという点。確かに一部、二部で登場した加納マルタ・クレタの姉妹は三部ではまったく登場しないし、三部になって現れる赤坂ナツメグ・シナモン親子の登場といい、やっぱりちょっと一貫性の無さというか唐突な感じはする。
世間的には読売文学賞を受賞したこともあり、なにか完結した一番の代表作とか、村上春樹にとっての『ねじまき鳥クロニクル』は、ドストエフスキーに対する『カラマーゾフの兄弟』のような扱いを受けている感があるけど、これでもまだまだ中途半端やん。と個人的には思う。方向性のようなものは定まってきたように見えるけど、それをまだ扱いかねているような印象を受ける。だからといって面白くなかったというわけではなく、本としてはかなり面白い部類に入ると思うし、量も申し分なかった。ただ、この本で村上春樹が頂点を迎えたのではなく、まだ何かしらの途上にあるのではないか?と言いたかった。というか、途上にあってくれ。と俺が思ってるだけかも…でもこのまま村上春樹が新しい長編書くことなく死んだら実際にこれが代表作にになるんやろうなぁ…
前作の『国境の南、太陽の西』は『ねじまき鳥クロニクル』を執筆中に派生した形で出てきた物語だと言う話やけど、それは『ねじまき鳥クロニクル』で家を出て行くクミコの側に立った物語ではないかとふと思った。まぁあくまで思っただけやけど。
で、この『ねじまき鳥クロニクル』は前作の『国境の南、太陽の西』と比べると、比喩も言葉の選び方も論理の展開も、そして主人公の社会的な地位も登場人物のキャラクターも『ダンス・ダンス・ダンス』以前の村上節が戻ってきているように思う。もちろん鼠とか羊男とかの人物が出てきているわけじゃないけど、それに通じるような変わったキャラクターはふんだんに現れるし「僕」の社会的地位とか性格とかもよく似ている。そういう意味でこの作品は、ちょっと実験的な意味合いを持った『国境の南、太陽の西』とは違い、いわゆる「村上春樹ワールド」の延長線上にある話だと思う。
村上春樹は『ダンス・ダンス・ダンス』まで延々と独自世界を築き上げ、そこに読者を引き込むと言う手法をとってきたように思う。それは現実的なリアルな世界とは全く繋がりの無い世界であり独自で成り立つ世界だった。それは村上春樹自身が述べているように外部世界とのデタッチメントを目指すものであり、いわば個人としての「神話」にあたる物の構築を目指すものだったといえると思う。実際に彼はこの小説の中で個人に属する物語に対して「神話体系」という言葉を使っている。
そして村上春樹がコミットメントへの方向を取り始めた(らしい)時期のこの作品ではその個人の「神話」を「現実の歴史」に結びつけようとする試みが見られる。間宮中尉の戦時中の物語、ナツメグの父である獣医の物語、それらは実際にあった事かどうか別にして、現実の歴史として語られ、それらは密接に「僕」の物語と関ってくる。ストーリーテーリングとしての個人ごとの「神話体系の構築」は歴史的な意味で現実と繋がってくる。それは暴力の象徴としての「バット」と跳躍の意味での「井戸」がそのリンクとなるものではないだろうか?
その現実とのリンクという点とはまた別にこの本の中で「新しい世界を作る」ということについても少し言及されている。それは笠原メイの口を通して、新しい世界、新しい自分を作ろうとする試みはその捨てようとした世界、捨てようとした自分自身から仕返しされることになる。と言うことだ。
おそらくこれが村上春樹の感じていることなのだろう。つまりは新しい世界、新しい自分は前の世界や前の自分を捨てることなく構築されねばならないということになる。村上春樹はその手段の一つとして、新しい世界や新しい自分の構築に歴史的なコネクションを持たせようとしたのではないだろうか。
この物語がデタッチメントを目指した「神話体系」としての「村上春樹ワールド」の延長であり、その世界が歴史的な史実とどのような形にしろリンクしているということは、その世界をデタッチしようとした世界を否定することなく、その世界から仕返しされること無く存続させるための試みと言えるような気がする。
いわゆるデタッチメントの結果として構築されたはずの「村上春樹ワールド」は実は歴史的な繋がりとして現実世界とコミットしていた。またそれを意識することで「壁」を抜けて別の世界に行き「クミコ」を取り戻すことができた。これが村上春樹の考えている「コミットメント」の一つの形なのだろう。
しかしその歴史的史実とされる物も実は個人にとっての「神話体系」の域を出ない。それは間宮中尉の「神話体系」であり、ナツメグとシナモンの「神話体系」であるからだ。村上春樹が個人ごとの神話体系にコミットしてそれを結びつけることをコミットメントと捕らえているのか、それともこれがとりあえず何らかの一段階であると捕らえているのか。そこはまだまだはっきりしていないように見受けられた。
この辺がまだ途上にある話なのではないか。という印象を受けた理由かなと。
この本を読む直すのは多分四回目やけど、まぁ今読んでもかなり面白い本やった。家にある本は一部・二部が初版本やのに、三部だけ初版が出てから一年半ほど過ぎた後の7刷を買ってる。多分当時は一部・二部だけ読んで「お前の言うことはツマラン!!(ようになった)」と思ってたんやろうなぁ…

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