手塚治虫 『どろろ』 / 「なんとかカルボナーラ」は当たりにくい
この日スパゲッティーを食べたのだが、メニューだけ見るととても美味しそうに見えて心惹かれる「何とかカルボナーラ」は大抵どれも同じ味で代わり映えしない事が多いなぁと思った。
それならあえてそれほど好きでもないカルボナーラーを選ばずとも他のものを食べとけばええやん。と。
これは美味しい!という「何とかカルボナーラ」や「カルボナーラー何とか風」があればぜひ知りたいものである。
この間、『魍魎戦記MADARA』を立ち読みしてちょっと期待外れやった。ってことをブログに書いたけど、それならばそういった系統のオリジナル作品を読もう。
ということで今勝手に名づけた「失われた空白を取り戻してゆく系」のはしりの漫画である、手塚治虫の『どろろ』を今更ながらに読んだ。
ストーリーを単純に言えば、父の天下取りの野望のため、その代償として妖怪に体の48箇所を奪われた状態で生まれてきた百鬼丸が、失われた体を取り戻すために妖怪と対決してゆくもの。
1967年から1968年まで少年サンデーに連載されていたらしいけど、あまりにも暗い内容で不人気でほとんど打ち切りのような形で終了したらく、かなり唐突な終わり方であった。
確かに少年漫画としては底に流れるテーマは重過ぎるし、ストーリも雰囲気も暗すぎるような気もする。少年ジャンプな少年漫画のテーマである「友情・努力・勝利」とはかけ離れた位置にあるだろう。
妖怪変化や侍や武士などの純日本的な設定の中、エディプスコンプレックスだのアイデンティティだのと、わかりやすいテーマは、意外に西洋的なものに端を発するものが多いようにみえるけど、どんな悪人にも妖怪にも同情する余地があり、絶対悪は存在せず、自らの幸せや欲求を追求することは他人の欲望や時にはその存在自体を犠牲にすることであるという感じのあまり西洋的とはいえないようなテーマが執拗に繰り返されていたあたりが、少年誌的には解りにくくあるけど、とても奥行きがあるように感じさせられるところであった。
出てくる妖怪がかなり不気味で、無闇に強い百鬼丸が格好良く、どんなことにも挫けない「どろろ」が可愛らしい、といったエンタメ的要素も多い。殺陣とか血の吹き出し方は黒澤明映画のようだ。
とはいっても百鬼丸が無敵の剣士というわけではなく、連れのコソ泥である「どろろ」や妖怪被害を被っていた村人たちに助けられて妖怪たちを倒すところが良かったし、妖怪と妖怪に操られる人々が人にとりついたり襲ったりするのにもやむにやまれぬ理由とそれにいたる悲しみがあるのが良かった。
村人の味方となって闘いながらも、結局は異形ゆえに妖怪の一味のような扱いをされて村から追い出される百鬼丸が、その事を当たり前として受け入れている様がなんともたまらんし、妖怪を見つけ次第ぶち殺してゆく百鬼丸やどろろであるけど、村人たちよりも妖怪に取り付かれた人の方により親近感を抱いている節があるのはわかるような気がする。
それでも、妖怪を殺して失われた体の部分を取り戻す度に、新しく得た器官で世界を賛美する百鬼丸と、どんな状況でもあきらめずに前向きな「どろろ」がとても清清しい。
何度も読み返したくなる漫画であった。
むむ確かに美味しそうですな。
確かに美味しそうですが、カルボナーラに良い具を使うのは勿体ないような…
更にそこまで行くと既にカルボナーラではないような気も…
カルボナーラですが「シーフードカルボナーラ」(仮名)が個人的にオシシメ。
ベーコンの代わりにイカ・ホタテ・エビなぞ(魚介なら何でもオケ)入れて炒めて混ぜ混ぜ。
仕上げに3cmくらいに切った水菜を混ぜるとまた風味あってよろしおす。
ツナやアンチョビ使うのもヨシ!