マイスター・エックハルト 『神の慰めの書』 訳:相原信作
「やっと」と言うべきか、マイスター・エックハルトの『神の慰めの書』の感想を投稿する。
結構な時間をかけて読み、読んだ後もこの感想を書き始めるまで結構時間があった。
なんというかあんまり適当なことを書くわけにはいかんなぁという感覚が書くのを遅れさせていたように思う。とはいっても、時間をかけてゆっくり書けばそれなりの物が書けるという事も無いやろうし、観てすぐに書く映画の感想が適当と言うわけではないんやけど。
思想家としての神学者エックハルトは、プラトンやとかデカルトやニーチェといったメジャーな哲学者どころか、同じく神学者であるアウグスティヌスやトマス・アクィナスに比べても、一般的にマイナーであろうかと思うので、彼自身についてちょっと調べた所を書いてみる。
彼は、トマス・アクィナスが現役のパリ大学の教授で、日本では親鸞が死んだ1260年代の初めにドイツのチューリンゲンに生まれ、神学者の道をひた走って、学問的にも教父としても人々の尊敬を集め、神学教授としてのパリ大学での功績を認められて「マイスター」の称号を受けている。
しかし1326年に当時アヴィニョンにあった教皇庁から異端の告発を受け、審問を待つ間に彼は死んだものの、結局彼は異端の烙印を押されて全ての著作は焼かれて所持も刊行も禁止されてしまった。
彼に関する情報がことごとく意図的に消去されたおかげで、現在、彼のことはほとんどわかっていないらしい。
その後カトリック教会は彼の名誉回復を行って、彼を学聖として祝福したけど、彼自身の手によるといわれる著作物は殆ど全くと言っていい程残っていないらしい。
今世にある彼の著作と言われるものの殆どは彼の説話やエピソードを記録したような形の文章、又は教説に関しての口述筆記らしいものであるようだ。
そしてこの本もそんな教説集の一編である。ドイツで出版されていた二冊のテキストから訳者が選んで構成した物であるようだ。しかしこの本自体の表題にもなっている『神の慰めの書』はハンガリー王妃に向けた文章で、唯一の彼が直接書いた事が明らかになっている文章であるらしい。
異端とされた神学マイスターなる立場はなんとなく男心をくすぐる何物かを持っているけど、彼のそんな立場は関係無しに、彼は彼の教説からどちらかと言うと神秘主義者という位置づけるあるようだ。
聖書の「幸福なるかな、心の貧しい者」を、彼は自己を捨てた、仏教で言う無我のような物として考え、自身を無にすることで、自身に神を迎え入れるための存在となる取った事を説いている。
自身が無になり処女性を帯びる事で、処女受胎のように神を生む事が出来る。といったように、自分自身が神と一体化するような方向性をもった教義を述べているように思える。
彼が我々に言わんとする事を最も端的に言ってしまえば「自己を放棄して無になることで神と合一する」と言う事だろうし、確かにそこには「悟った」と言われるような人たちが口にする典型的なタイプの一つがあるように思える。
ここまでなら、彼の言っている事だけを取れば、頭でっかちの悟ったつもりの勘違いした自称宗教家、自称哲学者が言いそうな事と同じであろう。
口だけでは何とでも言えるし、問題はその言葉が真実らしく読む人の心に響くかどうかである。
世間では往々にしてそういった事を口にする人は胡散臭い人だったり、完全にに勘違いしているように見えるが多いようで、いわゆる「悟った」というか「見てしまった人」というのは、そうではない人とそういった事に関する事を話し合ったり主張したりせず、自分がそうである事を声高に述べないものであるような気がする。
世の中でそう言う事を口にするのは、語る本人にとっても、その語られる事どもにとっても、あまりにリスクが大きすぎるし、現にエックハルトはそのおかげで異端認定までされてしまっている。
しかし、彼がそういったリスクを負いながらもひたすら彼の到達地点と目指すところを語っていたのは、人に対する愛からではなかろうかと言う気がしてしょうがない。
自分自身が何とか乗り越えたり、乗り越えようとしている試練に、他の人たちが立ち向かっているのを見ていると、その試練に恐れる事無く立ち向かえるように言葉をかけずにいられないのではないだろうか。
彼が言う「無我による自己の放棄」とか「神と同一になることで自らが神性を帯びる」なる教説は、私からすれば単語レベルの言葉の意味として理解されうるのみで、自身の実感として理解するには遥か彼方にある境地である。
しかしながら彼が、私にも良く理解できる苦悩や欲望や罪、などあまりに人間的なものに対して言及する言葉はとても心に染みる。
「私はあえて、いかなる聖者も愛や悩みによって動かされない、程に偉大であった事はかつてなかった。と主張する」と彼が言うように、人間であれば愛や悩みなる欲望と苦悩から離れられないとでもいうところが彼の人間に対する認識の基本なのだろう。
「罪への傾向性は罪ではない。罪を犯す事を意志する。それが罪である。」として、欲望や罪の根となる「傾向性」自体が消えるのではなく、それと戦う事こそが尊い仕事であると説く。
苦悩と欲望との死闘が神への捧げものであるとするキリスト教的な価値観を、彼はなんと苦悩と罪に満ちた人間存在に対する同情と愛を持って語るのだろうと思う。
そういった苦悩と罪と一緒でしか存在し得ない人間なる基本認識を前提にして、「まことに私は、私の中の魂に徹頭徹尾神を受け入れるに十分な能力をもっている。私は、私自身生きている事を確実に知っているが、それと同じ程度の確実さを持って、何物も神ほどに私に近くない事を知っている。神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである」と言う事を誰でも同じですよ。というトーンで言っている。
自己を捨てれば捨てるほど神を認識して神が自分に合一化しやすくなるという、凡人からすればあまりにもぶっ飛んだ教説は、ここでエックハルトの愛と同情に満ちた人間観と一体化して、読むものにリアリティーと感動を引き起こすのである。
「我が苦悩こそ神なれ、神こそ我が苦悩なれ」「神御自身がわれわれと共に悩み給うのである。」なる言葉に至っては、神を信仰する人にとってとても慰めと力づけになる言葉である事は良くわかる。
また「酔える人マリア」と「働ける人マルタ」を比べて、観想的であるよりも活動的である事の方が良いとして、生活こそもっとも偉大な認識を与えるとしている事は、宗教者でも学者でもない我々にとって何と励みと救いになる事だろうか。
エックハルトの説く教説やとか説教はもちろん、悟ってもなお、凡人と同じ場所に立って、同情と愛に満ちた言葉を人にかけ続ける彼のお人柄も、彼が現在でも読まれる事の大きな一因ではないのだろうかと思った。
自分の信仰やとか知恵を誇るようなトーンが皆無で、人間に対する同情と愛に満ちながら、熱く熱烈に神の愛と神の国がどれほど素晴らしいかを語られると、さすがにそれは素晴らしそうやなぁという気になってくる。
結局、思想であるとか哲学であるとか宗教であるとか、そういったものはそれを持つ人がどういった人であるかと言う事、また語られる事と語っている人が切り離される事無くどれだけ素晴らしかったり、信頼できる存在であるかと言う事が、本当に大事なのではないかという思いを強くした。
個人とその思想は切り離されてしかるべきであるという事をヤスーパースが言っていたような気がするし、確かにそうであるべきなのやろうけど、それでももし私がなにものかの真理を目指して哲学する人間であるとしたら、私の言葉、私の行い、私の存在でその哲学なるものを貶めて汚す事のないように「あいつがあんな無茶苦茶やねんから、あいつのいう事もたぶんあんな無茶苦茶なんやで」などと言われないようにしたいなぁという思いを強くした。
そして逆に「あんなに素晴らしい人の言う事やから、きっとあんな人が目指すものも素晴らしいに違いない」と言われるようになればこれに勝る幸せは無い。
と思った。
って結構書いたなぁ。長い感想というかレビューになってしまった。皆読んでくれるか心配である。