『それがぼくには楽しかったから』リーナス・トーバルス
ビル・ゲイツでもスティーブ・ジョブスでもない「新しい形のヒーロー」として、コンピューター界だけにとどまらない知名度と人気を誇る著者。
この本は彼がLinuxカーネル開発に至り、そしてOSとしてのLinuxが爆発的に広まってゆく様を彼の視点から述べたものであり、そして彼自身の生活や考え方饒舌に述べたものでもある。
なぜLinuxがこれほどまでに世界を覆い尽くすようになったのか。Linuxが採用したオープンソースという概念が一大ムーブメントとなったのか。それはLinuxのシンボルであり、広告塔が人間的な魅力に満ち溢れたリーナス・トーバルスという一個人であった事が最も大きな要因の一つと言って良いだろうと思う。
リーナス・トーバルスはシャイで話し下手でペンギン好きなただの世捨て人のオタクではなく、実に人間的かつ「まとも」であるという事が読み取れるのがこの本である。また、商業主義でも、拝金主義でも、厭世主義でもない別の生き方やら価値やらの1モデルを提示している点でも大きな意義があると思う。
というと大げさすぎるけど、ぶっちゃけIT関連書籍でもなく、ビジネス書でもなく、偉人伝でもなく、どちらかと言えばタレント本に近いコンセプトと構成で作られた本なのではないかと思う。
まぁ俺は彼を「尊敬」に近いほど好いているので、かなり好意的に読んでるのは確かやね。
土曜に読んだ本やけど、この本と言うよりは彼、リーナス・トーバルスについて書いてみたいと思う。
俺が彼に好感を持つのは一言で言うと「足を知るバランス感覚に根ざした中庸」と言う事になる。
彼がLinuxやオープンソースの行く末や目指すべき所を決して語らず、大企業や大学などの講演や会談依頼を断り続け、いわゆる「ビジネス」のスタンスから離れたところに身を置き続けているのは有名な話だ。
GNUやフリーソフトウェアの思想も、その提唱者であるリチャード・ストールマンの言うようなある種のアナーキズムを感じる「ソフトウェアはすべからく人類共通の財産とすべきである。」などと荒い語気で熱く語られるのではなく、
「みんなで知恵を公開しあった方が良いものが作れるじゃないか」という口調で、ストールマンのそれよりも、一般人にも判りやすく受け入れやすくなっている。
Linuxをある時点からビジネスに変えてしまえば、彼はビル・ゲイツに勝るとも劣らない富豪になれたはずだ。
と言うのもよく言われる事やけど、そうしなかったのは決して彼が清貧思想家だったというわけではなく、redhatに貰ったストックオプション(未公開株譲渡?)の株価に一喜一憂しているこの本に書かれたエピソードからも彼自身の「足を知るバランス感覚」と共に彼の人間らしさを表しているように思える。
彼がインタビューに答えて言ったGPL3やOpenSolarisへの批判も「僕は使いたくない、僕には興味がない」というスタンスを貫いている。
彼は決して「べき論」で何かを語る事はなく、彼にとって面白いか、彼にとって正しいと思えるかという個人性のレベルだけで物事を語る人物であり、彼のカリスマはそこに端を発しているように見える。
押しつけがましくなく、控えめで、言っている事はまともで判りやすい。しかも金と女には余り縁がないように見え、実はすごいカーネルハッカー。そりゃある種の人間のツボを北斗神拳並にダイレクトに突くって。
彼はこの本の中で人間が成長してゆく段階というのは「生き残る事」「社会性」「楽しむ事」の三つにあると述べている。
プログラマの例を挙げれば「生き残る事」は生活のために雇われてプログラムを書く状態で、「社会性」は特定のコミュニティーに参加して名を成したり有名になろうと良いコードを書こうとする状態で、「楽しむ事」はただ自分の楽しみの為にソフトを作る。
と言う事になるらしい。
彼がLinuxカーネルを開発した動機としては、彼の言う最後の段階、この本のタイトルにもなっている「それがぼくには楽しかったから」というただ一つの理由を挙げている。
このリーナスの言う三つの段階を読んで、ニーチェの言う「三段の変化」と似ているのにちょっとびっくりした。
ニーチェが言うには精神は「重荷を担わされる事を望む驢馬」になり、次に「自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする獅子」へ、最後に「おのれの意欲を意欲し、然りを発語する遊戯する小児」となるらしい。
リーナス・トーバルスが余りに普通の人であるように見えながら、あまりに普通の人とは遠いところにいるように感じたのは、そして俺がこれほどまでに彼に好感を寄せるのは、それは彼がニーチェの言う「小児」の段階にいる、ある意味で超人なのだからなのではないだろうか?
などと強引に結んでみた。
熱中度 ★★★☆☆
考えさせられ度 ★★★☆☆
影響度 ★★★★☆
総合 ★★★★☆