日記的な、あまりに日記的な
DVD±Rドライブが壊れてマウントしなくなった。読みに行ってる気配もない。
新しく買おうか激しく迷ったが、DVD焼く事なんかSolarisインストールする時くらいしかないし、先日PCを買ったばかりなのでとりあえず今は諦める方向に。
夜にいつもの巡回コースでサイト巡り。
巡回サイトの一つが閉鎖していた。最近とことんな状態になっていたのでどうした事だろうと草葉の陰から心配する。一方でいったん閉鎖したかと思われた某カリスマ日記サイトが正式復活していた。
なんとなく懐かしくなり、過去日記を読み漁る。
久しぶりに読む文体から感じるスピード感と勢いと滲み出る人柄に心躍らせる。
職業的文筆家にはない、日記的に素晴らしい文章というのは確かにある。
単純に言えば、職業作家のとは違う心の揺さぶらせ方をするという事だ。
たしかにその某日記サイトは赤の他人の俺が読んでも感じるものは多いし、一気に大量に読ませるほどのエネルギーを持っている。
しかし、実際の所、この俺のブログの日記的文章は俺を直接的に知らない人間が読んで何か少しでも得るところがあるのだろうか?
客観的に読んでみても、ネット世界に満ちている草ブログと何ら変わるところはない。つまりはそれが俺が世に満ちる草ブログ作者と何ら変わるところがないという事を意味しているだけの話なんやけど。
最近、相対的ではなく、絶対的に自分の価値を定位させろ。てな感じの事がよく言われている。
しかし、往々にして絶対的に自分に価値を見いだしているかのように見える人間は「根拠のない自信」を持っているようにしか見えない場合が多いし、見ててあまり気分の良いものではない。
そういった人たちが自分自身で自分の価値付けを行っている人なのかどうかは判らないけど、自分で自分に価値を付けるという行為は、自分の座っている座布団を持ち上げる事のように思えるし、正直どうやったらそんな事がが出来るのか想像が付かない。
自分で見て、自分に属するもので「これで十分!」だとか「これが私の証!」など思えるものを持っている人などどれくらいいるのだろう?
いやいや、43のいうてる事が俺が暗に言おうとしていた事です。
ただ、他人と比較した訳でない自分の愚かさとかアホらしさを感じる事が出来ればその逆の価値も感じられる可能性があるのではないかとも思いますが。
43は一応宗教者になろうとしている人ですから、その辺の所を追求する事になるのでは?
と言うても、43の属するトコの場合は、個としての自我を拡大する方向でなく、良い意味で縮小していく方向になるんでしょうかな?よく判らんけど。
絶対的な価値観を持つってのはどうやるんでしょうね。自身の存在に虚ろさしか感じない身としてはそんなものあんのかいな?なんて思いますが。根拠が不確かでも自信さえあればいいなんて生き方できませんわ。
なんか私、言うてることずれてる気がするけどなんとなくそう感じますた。