中沢正夫『「死」の育て方』/カジュアルに死を語る/きたときに考えればいい
中沢正夫の『「死」の育て方』を読んだ。
前のエントリもそうであるが、最近「死」についての本をやたらと読んだり、ブログや何やらで人が「死」について書いているようなものばかり読んでいたのだが、その中の一環ということになろうか。
本の紹介の
精神分裂病の名医にして名文家の著者が綴る“死の育て方”。50歳代に入った医師は、ふと「普段着で寝ころがって読んでもらえるような死の本が書けないものだろうか」と思い立ち筆をとる。著者は言う。「“自分の死に参加”することから始め、“向きあうよりも並んでしまおう”」と。が、「死への思いはたえず揺れ動き、首尾一貫しない。しかしそれこそが現象としては正確であり、実は首尾一貫していることなのだ」と。
ってのに惹かれて読んだ。
沢山本を出している有名な精神科医である中沢正夫が自分の死が見えてくる年代になり、患者の死や身内の死、また自分自身が思う「死」について、エッセイのようにカジュアルに書いてある。
何より重い話だったり真剣に考え込む対象ではなく、日常的なレベルで死について書くという視点が気に入ったのである。
身内や友人や患者の死や結婚式中に死んだ恩師の話などといった直接的な死をめぐる自分自身の思い出話だけでなく、家庭を持つ人とずっと長い間何十年も好き同士でこっそり付き合っていたが、相手の死を直感して近所の人に紛れて出棺を見送ったという、著者の本の読者の初老の女性の話や、患者を装って著者を訪れ、自分が初老を迎えて「死」についての本を読み漁り、死についてひたすら考え、調べ続けた研究を著者に披露し、深く著者と死について語り合うようになる話、など著者だけでなく、著者とかかわりがあった死をめぐる色々な人の話が出てきて面白かった。
確かにこの本では余りにも軽く気軽に「死」が語られている。
本全体での結論めいたものとしては、「死とはよく生きること」「死はそれがきたときに考えればいいこと」という所に集約されそうな気がするのだが、著者が現時点での自分の一番理想的だと思う死に方が、着実に死に行く準備が出来る「ガン」であるというところがちょっとした驚きだった。
私は死というのはいつ何時人を捉えるか分からない絶対準備できないものだという思いがあったが、確かに私の年代を取り巻く死は突発的なものの場合が多い。
年を取ると自分の死は準備するものになるのだという感覚にちょっとクラクラする思いである。
結局、この本を読んでいて結局自分や他人の死をどこまでリアルなものとして想像できるかということによって、死に対する受け取り方が変わってくるのだろうなと思う。
「死」について書いた、好きな本の一つであるエリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』を読んだ時もそうであったのだが、宗教なしで「死」について考えたり捉えたりするのは本当に難しいなぁと思うのであった。
宗教なしで死を捉えた否定的でないものとしての見方は、この本にも『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』にも出てくる「死」を自己の成長の最終段階であると捉える見方くらいしかないのではないだろうか。
しかし、実際にそんな見方を頭の中だけでなく実際行う行為として理解することなど、とてもできそうにないような気がする。
そう考えると、この本の中にあった「死はそれがきたときに考えればいい」って言うのは「死」だけではなく色々な事や物に適応できる考え方に見えてくる。
生きていれば色々なことが起こるし、また将来起こるかもしれないと予想されるけど、それら全てを前もって考えて準備しておくことなど不可能である。
生きていく上で起こる大抵の事は「それがきたときに考えればいい」でちゃんと切り抜けられるのではないだろうか。
と思うのであった。