阿部和重:『ピストルズ』 / 『ピストルズ』と『西の魔女が死んだ』と『北斗の拳』と

amazon ASIN-4062161168 阿部和重の『ピストルズ』を読んだ。
何でもこの本はついこの間に第46回谷崎潤一郎賞を取ったらしい。
谷崎潤一郎賞と言えば、大江健三郎『万延元年のフットボール』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などと私の中でかなり好きな本が多い賞というイメージがある。
『シンセミア』を読んでから一気に好きになった阿部和重であるが、この『ピストルズ』はその『シンセミア』の続編でもある。
また、『シンセミア』だけでなく、同じ著者の『グランド・フィナーレ』『ニッポニアニッポン』『ミステリアス・セッティング』とも直接的に絡み合っており、
「神町」なる町を舞台に何代にもわたる群像劇、いわゆる「神町サーガ」の第二部にあたるらしい。
この『ピストルズ』はその「神町」を影から操ってきた、ユートピア的なサロンでもある「ヒーリングサロン・アヤメ」なるものを経営している、森の奥に住むちょっと怪しくて胡散臭い一家の菖蒲一族に伝わる千年の歴史を持つ一子相伝の秘術と、それにまつわる壮大な歴史との物語である。
前作『シンセミア』がエログロ下品で動物的なピカレスク的雰囲気であったのに対し、この『ピストルズ』はそれとは全く正反対の動植物と言葉を交わして植物の香りを術の触媒に使うような、『西の魔女が死んだ』的な道具立ての少女趣味的でガーリーとでもいうような雰囲気である。
ハーブだの精油だの花だのキノコだの果樹園だの自然と一体になって生きるだの、蝶や草花と話をするだの「最終奥義は愛の力」だのと今までの阿部和重にはありえなかったものが最前面にメインで登場するのは、タイトルの『ピストルズ』が拳銃を指すpistolではなく、雌しべのpistilsであるのをとてもよく象徴している。


しかしそこは阿部和重、『西の魔女が死んだ』的少女趣味を中心に文体とストーリーを構成して展開しつつも、その裏で胡散臭くて醜くて変態的な人と欲求と物語が殆どメインストリームのように流れており、『西の魔女が死んだ』では一方的に拒否されて嫌悪されて否定されてる対象であったゲンジさんを数人集めて煮込んだような濃い人間達も生き生きと暗躍している。
そのあたりは、本来の意味は「雌しべ」であるけど「複数の拳銃」でもあるこのタイトルの「ピストルズ」は言い得て妙ですな。
この本の前に出た小説の『ミステリアスセッティング』を読んで今までとは全く違う文体とストーリーに驚きつつも、その変化が「次の大作に向けてのリセット」だと知ったのだが、確かにこの『ピストルズ』は『ミステリアスセッティング』に似ている。
感情移入できて好感の持てる少女達のストーリーとユートピア的なサロンの物語を中心とした、柔らかい女言葉でて語られる小説の構造はとても読みやすかった。
そして、何よりも驚いたのはこの菖蒲一族の使う術の最も上位の最終奥義が「愛の力」に基づいているものだというところである。
その「愛の力」を以って奥義を習得し、一族の誰もが到達し得なかった境地に若くして達したのが菖蒲家の末の妹のみずきである。
若くして千年の歴史の秘術を持つ菖蒲一族の頂点に立ったみずきであるが、この物語の中で『グランド・フィナーレ』の主人公のロリコン男に娘と会いたいけど会えないのでその娘の思い出が苦しすぎる。と告白されるシーンがある。
みずきはそれなら楽になるようにその娘に関する記憶を消してあげると提案するが、男に苦しいけどこの思い出は消したくない苦しいままがいいと断られる。
みずき自身は男にそう言われてもその心理を全く理解できてない描写があり、「愛の力」を習得した「みずき」も、カイトなる血の繋がらない兄を愛してはおれど「愛」そのものに関しては経験不足の感がある。
このあたりはまだ愛を知らないみずきが更に覚醒する余力があるという布石なのだろうか、
少なくとも、この全く阿部和重的でない概念である「愛の力」のどのへんが「愛」に基づいているのか良くわからなかったのがちょっと残念ではあった。
著者によれば「神町サーガ」は三部構成になる予定らしい。
ピカレスク小説然とした欲望と衝動に突き動かされる『シンセミア』、そしてガーリーで自然主義で少女趣味な「愛の力」の『ピストルズ』、そして次の第三部と続くわけだが、この『ピストルズ』の最後の章にその第三部がとても暴力的で冒険的で陰謀的であるようなものを示唆させるものが埋め込まれていたように思う。
みずきが好きな人でもあり、菖蒲家の一員でもあった余りに『シンセミア』的な恐怖と痛みを感じないというカイトは、菖蒲一族の奥義の伝承者の「愛の力」の使い手たるみずきと恐らく衝突することになるのだろう。
まだまだ未熟なみずきが本当の愛を知って真の「愛の力」に目覚めるとかいうラオウとケンシロウ然とした北斗の拳的ストーリーがなんとなく想像される。
著者はこの本について
「語りによって事実はまったく違って見えてくる。歴史というものは語り手に依存しているのだということを、作品の構造で示唆しました」
と語っている。
それは逆に言えば語り手によって歴史は作られるということでもある。
「神町サーガ」が「サーガ」であるのは特定の人物が主人公なのではなく、町や空間や時間そのものが主人公であるというところである。人や物はただの小道具に過ぎない。
第三部で何がこの「神町サーガ」を語り、どういう歴史が作られるのか、オラワクワクしてきたぞ!

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