舘野之男『放射線と健康』/自分で放射線リスクを判断するとは
先日『人は放射線になぜ弱いか 第三版 -少しの放射線は心配無用-』を読んだが、読み終わってもちょっと微妙な違和感が残っていたので、立場的に中立で評判のよさげな舘野之男なる医学での放射線利用のの専門家による岩波新書の『放射線と健康 』を読んだ。
最近でこそ報道も少なくなってきたけど、一時期は毎日のように原発関連のニュースで何々から何ベクレル検出されたとか、何シーベルトまで大丈夫とか色々な単位が入り乱れた状態の情報が飛び交っていた。
放射線、或いは放射性物質の話が妙に分かりにくく感じるのは、このベクレルとシーベルトという二つの単位で語られること、そしてどの程度の被爆をするとどのようなことが起こるのかがはっきり明確にされていないこと、そして、今現実的にどの場所がどれくらいの放射線に晒されているのが良く分からないと言うことにあるだろう。
そしてその分かりにくさは、ただ知識が無いゆえの分かりにくさではなく、そもそもの科学としての放射線と人間の体の影響自体がわかり難いというところに端を発し、その分かりにくさがそのまま伸張されたような状態であるということに因るように思う。
この本では量子的な紫外線、X線を含む各種放射線と原子核崩壊の話から始まって、われわれが環境や自身の体から日常的に受けている放射線、そしてベクレル、グレイ、シーベルトなどの単位が何を表しており何を読み取るべきなのか、そしてこの本の一番のメインの話である、
そもそも放射線の話が単位や人体への影響を含めてなぜわかりにくいのか、そしてなぜ分かりにくくなったのかが、「確定的影響」と「確率的影響」をキーワードに解説される。
評判どおり始終クールで中立的な印象を受けたし、とても信頼感がおけるように感じた。
基本的に本の中で述べられている学的な事実や一般的に支持されている説については前に読んだ、『人は放射線になぜ弱いか 第三版』とほぼそっくり同じである。
しかし、この本が『人は放射線になぜ弱いか第三版』と違い、また読んでいて一番印象に残るのは、先に書いた「確定的影響」と「確率的影響」の話であった。
『人は放射線になぜ弱いか第三版』では人体に影響する放射線量には「しきい値」があるとする「しきい値仮説」をあらゆる場合に当てはめて論じていたが、
この本ではしきい値のあるものを「確定的影響」、しきい値の無いものを「確率的影響」として区別してその違いを詳細に述べ、さらに「確率的影響」についてかなり深く突っ込んで説明してある。
まったく体に異常のなかった人が大量の放射線を浴びた場合、どれだけの量の放射線をどの部位にどれだけ浴びれば何が起こるのかは、一時的不妊、白内障、血液の変化、胎児の奇形化などの症状として、どの程度の線量でどの程度現れるのかがかなり詳細に分かっているらしい。
これはある程度までの放射線では全く症状として出ないし、ある数値以上の値の被爆ならほぼ確実に線量に応じた重さの症状として表れるので、「しきい値仮説」によって「確定的影響」として正確に計算される。
つまりこの「しきい値仮説」による「確定的影響」とはある一定以上の大量の線量を浴びた場合に発生する身体的影響の重篤度に対する影響を表している。
この「確定的影響」を今の原発事故に関連して考えれば、かなりの高濃度の放射線を浴び続ける可能性のある人、つまり、原発で直接作業する人々、高濃度汚染地域に住む人々や高濃度に汚染された食物や水や大気を摂取し続ける人以外には殆ど関係の無い話であろう。
そして、『人は放射線になぜ弱いか 第三版』では完全否定されていた「しきい値なし直線仮説」、つまり被曝量に応じて直線的に増加する「確率的影響」の話がこの本の注目ポイントである。
これは低線量の放射線を浴び続けることのリスクは「確定的影響」ではなく「確率的影響」として現れるという話で、いわゆる「健康にはただちに影響しないレベル」のリスクがどれだけであるのか。と言う話である。
いうまでも無く、これは今、日本全体が直面している問題の話であろう。
この「確率的影響」に関係してくるのは大量被曝した場合とは全く違い、「遺伝影響」と「発がん」だけに限定されるようだ。
「遺伝影響」とは遺伝子が損傷したまま子に伝えられることであり、「発がん」とは細胞ががん化することである。
この「遺伝影響」と「発がん」が線量に応じて「確率的影響」として現れると表現されることの意味は、「しきい値仮説」による「確定的影響」のように被爆した線量に応じた重篤さを表すのではなく、線量に応じて「遺伝影響」と「発がん」が「少しでも」起こる「リスク」が増加してゆくという意味である。
と書いてもいまいちわかりにくいが、「遺伝影響」と「発がん」は被曝していなくても日常的に色々な原因によって起こりうる事であるから、被曝する線量をゼロにしてもリスクはゼロにならない。
放射線量と正比例して「遺伝影響」と「発がん」が発生する確立が増えるのではなく、他にも色々ある「遺伝影響」と「発がん」のリスクのうちの一つが増えると言うところがポイントである。
結局この「確率的影響」によるリスクは個人や社会の価値観と大きく関わってくる。言い換えれば個人や社会がどれだけ、ガンや遺伝影響が起こるかもしれないリスクを気にして我慢できるか。ということになる。
仕事で放射線を扱う人や原発作業員が何の関係も無い一般人に比べて年間の許容被曝量量が多めに設定されているのは、そのリスクを受け入れるものと前提されているということになるし、ガン家系の人とそうでない人、これから子供を産むつもりの人とそうでない人の間では発ガンや遺伝影響のリスクの受け取り方は違う。
タバコや自動車や食物の持つ毒性や危険性をどれくらい受け入れるかというよりは、それらがリスクを持っていることを個人や社会がどう受け取るかの感覚に近いのかもしれない。
今の年間20シーベルトとかいう一見しきい値のように見える値は、放射線を浴びずに生活したとしても潜在的に存在する他のリスクを上回らない値と言うところなのだろう。
この本の中で、「発がん」は個人にとっての健康問題であるけど、「遺伝影響」はその個人よりもむしろ子や孫の問題となり、大局的に見れば社会としての問題となるはずだと言うことが書かれているのがとても印象に残った。
結局この本では、現在は歴史的な推移によって「確率的影響」といえば「遺伝影響」ではなく「発がん」のみで語られている状況であり、今は「発がん」の「確率的影響」がある程度把握されているだけで、「確率的影響」としての「遺伝影響」がどれくらいの数値になるのかは研究不足のためによく分からないとも書かれていた。
今一般人は年に20ミリシーベルトまでの被曝なら「確率的影響」から考えても問題ない。とされているわけであるが、
今の状況に当てはめて「年に数ミリシーベルトの被曝は健康に影響があるレベルではない」を正確に表現すると
「しきい値仮説」による「確定的影響」を言うような「年数ミリシーベルトだから絶対ガンは起こらない」という言い方ではなく、
「年数ミリシーベルトの被曝では放射線による発がんリスクが他の原因によるリスクを上回らない程度増えるけど、我慢できる人は我慢してください」と言う風な「確率的影響」を含ませた言い方しかできないだろう。
日本がこういう状況になったのだからしょうがないとそのリスクを受け入れる人もいれば、絶対それは受け付けられんと怒る人もいるだろう。
また少しリスクが増えても好きなこの土地に住みたいという人もいれば、ちょっと無理と引っ越すという人もいるだろう。
ガンをリアルに想像して怖がる人もいれば、ガンよりも交通事故のほうが怖い人もいるだろう。
なんというか、大本営発表的に一方的に「ただちに健康に影響があるレベルではない」と言うよりも、今は全く考慮されていない「遺伝影響」も含め、ちゃんとリスク開示した上で「我慢してください」とお願いして個人の判断にゆだねる方が、みんなが納得して安心できて色々な意味で得策だと思ったのであった。
この本を読んで、これはもうこれからのこの日本で自分で放射線リスクを判断して生きるための基礎知識ではないかと思えるような、
ベクレルとかグレイとかシーベルトの違いの話、われわれに関係ある低線量での「確率的影響」についてもよーくわかった。
そして、ちょっとした未来の期待のようなものもまた、この本から感じたのであった。