ライ麦二冊
昨日のサリンジャーつながりと言うことで、「ライ麦」二冊、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』と村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ。
村上春樹は、どうしても野崎訳が気に食わん。この訳が標準とされていることに我慢ならん。ということで翻訳を買って出て、あえて原題もそのままのキャッチャー・イン・ザ・ライというタイトルにしたらしい。
初めて村上春樹の訳のを読んだ時は、
あーダメダメ、村上春樹は子供を描くのに向いてへんやん。「つかまえて」の方がええわ。
って思ったけど、野崎訳のほうは昔から何回も読んで馴染みきってて、かつ村上春樹の攻撃的な姿勢にちょっと違和感があっただけで、改めて読み直してみて、村上春樹の訳もそれはそれでええやん。どっちが良いとか悪いとか言う話が多いけど、どっちもどっちなりにええやん、「ヨハネによる福音書」と「マタイによる福音書」を優劣のレベルで比較したりせんでしょ?と思った。
村上春樹がこだわってた、タイトルの「The chatcher in the Rye」やけど、これは主人公のホールデン少年が妹に、将来何になりたいのか?と問われて、崖のあるライ麦畑のようなところで遊んでいる子供たちが、崖から落ちそうになったら、さっと現れて「catch」する人間。I’d just be the catcher in the rye and all
と語ったところによるようだ。
確かにこれを「つかまえて」と訳すのはおかしいと言えばおかしいと思うけど、ホールデン少年が「ライ麦畑の受止め人」になりたいていうのを、ホールデン少年も崖並みに危険なところにいる自分を受止めて欲しいという願望の現れであると解釈したら、タイトルだけを「ライ麦畑でつかまえて」と訳してもそんなに怒ることは無いかと思うのだが。どうだろう?
いずれにせよちょっとした本好きなら『ライ麦畑でつかまえて』の原題が「The chatcher in the Rye」であることは当然知ってるわけやけど、その事の意味とか問題点を再燃させた村上春樹の功績は大きいやろうと思う。
タイトルは別にして、当然ながら話の本筋としては野崎孝も村上春樹も同じ。
少年時代の潔癖感とか無力感とかそういうことはもうわざわざ言わんけど、とっくに少年ではない筈の俺から見ても世界に「インチキ臭い物」は確かに多すぎる。
世界のインチキ臭さに耐えられずに苦しんでる人や、「インチキ臭い物」にインチキっぽくない人がどんどん取り込まれてゆく様を見るのはなんともつらい物でもある。
俺から見て「インチキ臭い」と見える物と関わりを持ちつつも、俺には関係ないものとみなして、まがいなりにも閉じこもるべき世界に逃げ込んで自分を守っている俺も、ある意味では「インチキ臭い」だろう。
宮沢賢治は『雨ニモマケズ』で、有名なので引用はしないが、具体的な色々な行動例を出して「そういうものに私はなりたい」と言い、
ホールデン少年は「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい」と言った。
たしかに、そういうものになれたらどれだけ良いだろうと思う。
でも、Nietzscheさんは「人間は汚れた流れである。それを受け入れて、しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。」と言った。
汚れを受け入れてなお不潔にならない大海、そういうものに私はなりたい。