ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』

ビート・ジェネレーションとやらを代表する作品でありその中でももっとも有名な(やと思われる)ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』を読了。
映画にもなった有名な本やけどまだ読んでなかった。
ビート・ジェネレーションなる範疇に入る作家は以前にジャック・ケルアックを読んだことがあり、これと同じ様な感じかなと思っていたけどまったく違った。
麻薬中毒の幻覚や混沌としか言いようのないイメージが「カットアップ」なる手法でフラッシュバックするように羅列され、幻覚そのままも、混沌そのままも、何かの比喩としても捉えることができず、最初から最後までまったく理解できなかった。
それでも麻薬中毒の幻覚とか意識や経験の範囲の拡大とかはこういうもんなんかというのがわかったし、麻薬中毒であるとか無いとか、同性愛であるとか異性愛であるとかの倒錯した美というのも確かに感じた。
あまりに今までに読んだ事のない種類の本で、かつまったく意味が理解できず、読んでる最中に何度も寝てしまい、読み通すのにかなり時間がかかった。


amazon ASIN-4309200974バロウズ自身はこの本の中で作家という存在が書く事の出来る物は「書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけ」であると語り、「ストーリー」や「プロット」や「連続性」は押し付けるべきではないと言っている。
そういう見方からすればそれが確かに今までの小説とはまったく違うことのエクスキューズにも理由にもなっているし、それが故の倒錯した混沌が作るある種の美は確かになにかしらの完成された物を感じる。
実際この本が様々な範囲に大きな影響を与えたのは明白で、「液化主義者」「送信者」とかこのイメージがオリジナルかと感じる部分が多々あった。
後にこういう手法とか見方が広まるわけで、こういう肉体的で欲求的で性的で原形質的で依存的な描写は人間の生理的な何者かをダイレクトに刺激するエネルギーがあるのだろう。
麻薬でもなんにしろ、常人には見えない何物かを見て、そこから美なり醜なりを抜き出して、そこから本なり音楽なり絵画なりの一つの形にするという段階のすべてを備えて初めて才能と呼べるのやろうと。
社会的な影響とか手法の話は別にして、個人としての本読み的な対象として見た場合、
大体、本とか小説とかは何かしら読み取ろう、感じ取ろうとして読むわけやけど、この本に関しては別にそんなことを考える必要も無いように思う。
考えてみれば他人が麻薬中毒時に拡大された意識と経験の中で見る幻影にそんな事を探すのが無理があって間違ってるわけで、ここは素直に「おーすげー」「ぶっ飛んでるなー」と意味も分らず、ちょっと引き気味に驚いておく、「仮想体験系」として捉えるくらいが正解なのかもしれんと思った。

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