『この国で戦争があった』
色々な業界の著名人38人の戦争についての体験を書いた文章を集めた本。
昨日読みながら寝たものの、今日起きてから残りを読んだ。
一人の人間が「戦争」について深く詳しく語ろうとするのはどうしても質的なものになって書き手の傾向に沿った僻説が入りがちやけど、色々な個人にとって「戦争」がどういうものだったかをその人個人の視点から書いてある文章が多数集まっているのは、文章の量が個人の質的な純化よりも量的な集積になっているわけで、
「モンペを履くのが嫌だった」という人がいれば、「毎日の空襲でどんどん知人が死んで辛かった」という人もおり、終戦にしたところで本気で悔しがった人がいれば心から喜んだ人もおり、そのある種分裂気味の雑多な事実の集積は「戦争体験」としてはリアルに感じた。
一つの事実に対して一人の人間が深く掘り下げるのではなく、雑多な人間の個人的な印象を集めて何かを浮かび上がらせようとする帰納的な試みは、村上春樹が「地下鉄サリン事件」に対して『アンダーグラウンド 』と『約束された場所で 』で取った手法やけど、「阪神・淡路大震災」に対して彼は『神の子どもたちはみな踊る 』のように全く別の、それにちょっと関係した物語を書く、というアプローチをしている。
誰もがしようとするように真正面から何かの物事に対峙するのではなく、ちょっと斜めから入るようなこういった二つのやり方はなるほどステレオタイプなモノとは違ったモノが見えてくるように思う。
そういう見方からすれば、この本に載っている文章はすべて別の本が出典であり、戦争を主題に書かれた文章ではない。
そういう意味でこの本は「戦争の個人的な経験」だけでなく「戦争に関係した物語」という部分もあり、他の戦争関連の書籍とは一線を帰しているように思うし、本全体から何のイデオロギーも臭って来ないのは気分のいいものだった。
色んな方面で名を成した人も、戦争時代は一兵卒だったり一市民だったりするわけで、なるほど「戦争」ってのが個性を埋没させて個人を均質化し、「戦争」っていう特殊な状態も慣れてしまえば日常になってしまうのが良く分った。
そういう経験を潜り抜けてきた人は絶対的に強くなってずっとそのままかといえばそうでもなく、差し迫った状態ではそれなりの強さを発揮するし、強くなくてもそれなりに生きていける場合では弱くもなる。
五木寛之がこの中で「人間の心理状態を決めるのは、一つの状況であって、論理ではない。」と言っている様に、人間とは案外その程度のものだろう。
一個の人間は一つの区切りのついた混沌に過ぎず、その人間たちが集まった社会もまた混沌でしかありえない。
とよく分らんことを感じた。