阿部和重『ニッポニアニッポン』

阿部和重『ニッポニアニッポン』を読んだ。
この本は第125回芥川賞候補作となった作品で、2001年に単行本が発売された。
「神町サーガ」の一つを成す物語で、時系列で並べれば、依然読んだ『グランド・フィナーレ』の前の物語にあたる。
アマゾンでは
「17歳の鴇谷春生は、自らの名に「鴇」の文字があることからトキへのシンパシーを感じている。俺の人生に大逆転劇を起こす!―ネットで武装し、暗い部屋を飛び出して、国の特別天然記念物トキをめぐる革命計画のシナリオを手に、春生は佐渡トキ保護センターを目指した。日本という「国家」の抱える矛盾をあぶりだし、研ぎ澄まされた知的企みと白熱する物語のスリルに充ちた画期的長篇。」
と紹介されているけど…このままの物語を期待して買った(読んだ)人は殆ど「ハァ?」で終わると思う。
主人公はキモい上に傲慢で勘違いな引きこもりのどうしようもない奴で、物語はその主人公の視点なり記述として進行する。
当然、その主人公が語る「国家の抱える矛盾」は薄っぺらいし、知的企みというよりは妄想といった感があり、動機と欲求の全ては醜い嫉妬と憤怒とルサンチマンの情からということになる。
かといって主人公が成長するのかと言えばそうでもなく、これだけの膨らみ様のある題材を使っていながら、古典的小説パターンから言えば、限りなく中途半端な物語になるだろう。
とはいってもこの中途半端さは阿部和重の意図するところだろうし、ようは出版社の書いた内容紹介文が悪いのだ。


amazon ASIN-4101377243この『ニッポニアニッポン』では『グランド・フィナーレ』のロリコン男とはまったく別の種類の、同程度かそれ以上に最低だと思わざるを得ないタイプの人間が主人公になっている。
元ストーカーで両親に横暴で独善的で引きこもってネットばかりしているこの主人公の言うこと成すこと考えることの全てに「うわっ」と思い、彼に共感のかけらすらも感じられない人が殆どではないだろうか。
主人公に嫌悪を抱かせておいて、後からその主人公が生まれ変わったように良い奴に代わるという常套手段や王道の展開を、彼に心を開く中学生が現れた所で読者に予感させつつも何も無く終わる。物語のラストも「!?」と思わせておいて結局何も起こらない。
考えてみれば、ベタベタな展開にしておいてベタベタな終わり方にしない「何もひっくりかえさない」が阿部和重の持ち味で、なんとなく「実際人生ってこんなもんやね~」的な変なリアルさを感じるし、なんとなく小説的感性の解体を要求されているようである。と言うとあまりに大げさか。
読者に対して主人公へのシンパシーを要求せず、書こうと思えば書けるはずの古典的伝統的小説的カタルシスも使わない彼は何を目指しているのかとても気になる。
「ほんまは書けるけど、ほら書けそうやろ?でも書かない。」ってのがそろそろ浸透してきて次にどんなものを書くのか楽しみである。
でも、素直に「小説」を読みたい人には全くお勧めできない本やと思う。

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