吉田満 『戦艦大和ノ最期』
戦後文学、戦記文学の古典として名高い、吉田満『戦艦大和ノ最期』を読む。
軍少尉、副電測士として「大和」に乗り組んでいた著者が、必敗の作戦へ最後の出撃をしたものの、敵の航空部隊と魚雷攻撃によって成すすべなく沈没させられる「大和」から逃げ出し、そして救出されるまでを漢字カナ交じりの文語体でストイックに多弁を控えて淡々とのべられて行く。
緊迫した戦況の記述と悲惨な救出劇の他に、戦友たちの個人的なキャラクターの善意と愛の溢れた描写に多くを割いているのが印象に残った。
凄惨きわまる戦闘に、戦闘員各々が各々の願望やら欲望を抱えて臨んでいったという、当然ではあるけど見逃されがちな事実が胸を打つ。
この本については戦争礼賛やら自虐史観やら色々な立場の色々な思想を持つ色々な人間が絶賛やら批判やらの言葉をイデオロギーの面から発しているのは知っているし、またこの本に書かれた内容が事実であるとかそうでないとかの議論があることも知っている。
当然そのことについて私は何も言及しないし、何かについて判断を下したり立場を表明したりする気も全く無い。
それでも、著者の言うように、戦争に臨んだ青年たちがどのような事を考えどのような価値を持って戦争の只中で当時を生きていたのかを記すのはイデオロギーの介在する余地の無い事であるし、著者の吉田満は価値の大きく変容した戦後を今までの過去と折り合いをつけて前を向いて生きるために、戦後直ぐにほぼ一日この物語を書き上げ、この体験を語るのがどうしても必要だった。と述べており、その事の意味はやはり大きいだろうと思う。
文語体の文体と語彙とリズムで述べられる記述に、当時の思考や価値はこういった文語体で語られるのがふさわしいのが良く分った。
淡々と多弁を控える語りは決して感情を抑えて感情に関する記述を避けているわけでは無く、それでも何がこれだけストイックな印象を与えるのかと言えばその記述に「感傷」が無いからだと思った。
人間であれば感情を持って当然やけど、だからと言ってそれが感傷まで行ってしまえばそこからは殆ど何も生まれない。と言うところか。
この感傷の無さがこの物語に漂う「品の良さ」を後押ししてるのだと感じた。
この物語の最期の方で、沈没した「大和」の渦から逃げ出してなお疲労困憊で重油まみれの海を漂いながら泳ぎ続けるのを諦めようとした時に、幻聴で聴く「バッハの無伴奏ソナタ」に励まされるシーンがあった。
続きをそのバッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ」を聴きながら続きを読み始めるとそのシーン妙にぴったり来たわけやけど、俺がバッハやったら、こういう事言われたら凄く嬉しいし、作曲した甲斐があったと思うやろうし、また、この本を読んで何かを感じる読者がいれば作者は嬉しく書いた甲斐があっただろうし、そういう輪の繋がりでこういう音楽やら文学はできているのだなと思った。