さかなクンとスケベ心と悦ばしき知識
2つ前のエントリに、せめて遊ぶときくらいは目的や意味とか価値や意義を求めたくない。と言うようなことを書いたけど、何かしらの言動にすべからく「目的や意味とか価値や意義」を求めるのは「スケベ心」と言ってしまっていいように思う。
それは本を読むことも同じで、スケベ心を持つオッサンやオバハンになるほど、単純な興味や問題意識から本を選ぶのではなく、何かしらの目的を達成するための手段の一つとして本を手にとる事が多くなる。
その自分の中で欲望として渦巻く下心を隠し、純粋なふりをしてスケベ心で本を読む「ムッツリ読書」とか、うわー嫌すぎるー!
そういう観点からいえば、子供向けに構成された本は大人のスケベ心が混じり込んでいる事が割りに少ないと思う。
例えば最近読んだ、角川の児童書レーベルの角川つばさ文庫から出ている『おしえて! さかなクン2』だ。
この本は著者がさかなクン閣下なので、もうひたすら魚のことしか書いていないのだが、魚に関する知識や知恵がこのような役に立つとか、何のために使えるかなどといったスケベ心は皆無で、魚に対する真に純粋な混じりけなしの「つるつるの愛と興味」のみが満ちている。
ちょうど同じ頃に前のエントリで紹介した『民族紛争』を読んでいて、二つの本の中に書かれていることが、とても同じ世界で起こっていることだとは思えないほどのギャップがあってクラクラした。
この『おしえて! さかなクン2』は書下ろしではなく朝日小学生新聞に連載中のものがまとめられたもので、3巻出ているうちの2巻目の、主に軟骨魚類の話をまとめて掲載してある本だが、なぜ私が1巻や3巻でなく2巻を紹介したのかというと、単純に私が古本屋で見つけたから…
というだけではなく、巻末にさかなクン閣下が特に魚好きではない層にまで閣下と称されるようになった「いじめられている君へ」なる文章が掲載されているからだ。
この文章は、群れで行動するメジナが海では仲良く泳いでいるのに、水槽に入れると一匹が虐められれ、いじめられっ子を救出しても、いじめっ子を排除しても、また次のいじめられっ子やいじめっ子が現れる。学校を離れていじめられっ子と一緒に海で釣りをしていたら彼はほっとした顔をしていた。という彼ならではの知見に基づいた事例を紹介しつつ、狭い水槽のような狭い世界に閉じこもらずに海のような広い世界に出ようというメッセージを子供たちに発したもので、同時に大人たちには狭い水槽に子供たちを閉じ込めるな。とも読める。
この彼の文章をよく読めば、彼が魚の世界に没頭していることが、彼が種としての人間をニュートラルに見つめ、普遍的な1つの真理を射抜く確固たる基盤になっている事がよく分かるだろう。
このメジナに代表される群れを作る魚の習性は魚を飼ったことがある人なら大抵の人が経験して理解していることで、彼の偉大な点はメジナの群れと人間の群れを同一化し、その水槽と海という対比を学校と外の世界に対応させる「知識」から派生する部分だけにあるのではなく、「いじめ」に関して全く原因も追求せず何も否定せずに、ただ真実のみの「目的や意味とか価値や意義」抜きで解決策を提示している「知恵」の部分にこそあるのだ。
この「目的や意味とか価値や意義」などといったイデオロギー論なしで、何かしらの問題の解決策を提示する事は中々出来るものでない。それこそ平行して読んでいた『民族紛争』の当事者同士の解決に関して一番欠けている視点と方向性である。
このさかなクンの生き様は、好きなことをとことん追求して何かしらの真理に到達することが、見えない地下水脈で繋がっている全く別の数多くの分野の真理の水をも同時に飲むことでもある。ということの良い例であるように思われる。
子供は彼の魚に対する愛と情熱を自分自身にあるものとして同調しつつこの本を読むのだろうけど、人が楽しんでいるのに「だから何?」とか「それで?」とか言って冷や水をかけるような大人こそこの彼の愛と情熱と知そのものを愉しむ姿に一度触れた方が良いと思いますギョー
って書いたの読み返してみたら「ムッツリ読書」とか「つるつるの愛と興味」とかいってる時点でダメだー説得力ゼロだー