梅棹忠夫の『知的生産の技術』/むしろ情報が氾濫する今こそ

梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読んだ。夜中に読み始めて殆ど朝まで一気読み。

amazon ASIN-4004150930

とても有名な本なのに今まで読まなかったのは、私がhowto本や自己啓発書の類や「ライフハック」的な方向性があまり好みではなく、この本がそれらの延長線上にあるとみなしていたからだ。

であるにも拘らずなぜ今になって読んだのかといえば、なにかしらで梅棹忠夫氏の人物そのものに対する興味がずっとあって、色々知るにつけこの人の本だからということで読んでみたいと思うようになったということになる。

読み始めて直ぐにこの本が結果や知識だけをなるべく簡単に効率よく得ることのみを目標とするような類のものではなく、それらとはおよそ対極に位置する本であるのを理解して、何故この本をもっと若いころに読まなかったのかと残念に思った。

本を読んでいるとこんな風に「何故もっと若いころに読まなかったのか」と悔やむ事も多いけど、逆に若い頃に読んで意味が分からなかったり面白くなかったとみなしていた本を何かの拍子に読み返して「(私の理解が)腐ってやがる!(読むのが)早すぎたんだ!」と思うこともある。

この『知的生産の技術』についても、若い頃に読まなかったのを後悔したと同時に、もし若すぎる頃に読んでもその意義を理解できなかったばかりか、巷に溢れて消費されて読み捨てられるhowto本や自己啓発書と同じもとのみなしていた可能性も大いにあり得る。

知的な意味での何かしらの「道」に踏み入る覚悟が無い限り、この本の「知恵」の価値が見えないような気がする。必死でそんな道を歩んでこの年になったからこそその価値に気付くことができたのかもしれない。

この本は情報や知識を扱う方法論を述べているように捉えられているように思えるけど、その方法論は間接的に著者の情報や知識についての態度や姿勢を雄弁に語っているように思う。

40年以上前に書かれたこの本の中で述べられていることが、現在でもまったく色あせていないどころか更に先に行っていることに驚きつつも、この本が書かれた当時に敷居が高かったり実現されていなかった事が、今となればスマートフォンやらEvernoteやら日本語入力やらで解消されていることを知り、つくづく恵まれていると思う。

我々はコンピューターやらインターネットやらスマートフォンやらに囲まれて情報の洪水に押し流されているように生きている。

彼のいう情報に対する姿勢と方法論や形式論は「如何に情報を得るか」ではなく「如何に情報を忘れ」そして「如何に簡単に情報を参照可能にするか」というところにあるわけであるけど、この彼の姿勢は情報が溢れる現代だからこそむしろ大切であるように思える。

常に毎日あらゆる情報が様々なメディアを通じて我々を通過してゆくけど、その情報を得ることだけに夢中になっている人が本当に多いように思うし、その情報の量に引き換え、我々個人が発揮できる知恵は余りにも少ない。

得られる情報が多ければ多いほど、それをどのように自分の中を通過させて忘れつつも、同時にどのように参照可能なものとしてストックするかは本当に大事だー

amazon ASIN-B003FGLVPO amazon ASIN-B007X8LMRCamazon ASIN-4582851037

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP