三島 由紀夫 『天人五衰』 (『豊饒の海』 第四巻)

amazon ASIN-4101050244三島由紀夫『豊穣の海 第4巻』の『天人五衰』を読了。今度は本自体が薄いせいもあり、あっという間に読み終わった。
『豊穣の海』最後のこの巻は80才となった本多が、松枝清顕の3人目の転生(だと思われる)青年を見つけるところから物語が始まる。そして本多が自分自身で悪だと思う自分の自意識と全く同じものを持つ、人並み外れて賢く、虚無感と諦念を含んだ悪意で世界を眺める透が中心となり、破滅の動きが加速して行く。
仏教的な無常観と、日本的な美と、三島的な美が混ざり合った何ともいえん雰囲気が全編を覆っていた。
そして主人公の透と本多のキャラも強烈過ぎるほど強烈やし、さらには、後半の「天使殺し」たる恐ろしさを十二分に発揮する慶子と、自分は絶世の美女だと思い込んでいる世にも醜い狂女の絹江とキャラも破壊力抜群である。
この巻もとても面白かった。
という事で、以下からはこの巻の問題「透は清顕の転生か?」と「最後のアレはどういう事か?」という事について書いて見る。おもっきりネタバレなので、該当者は注意してください。


清顕を巡る転生の姿はある種の「純粋さ」の体現でもあった。清顕は純粋な愛の、勲は純粋な志の、ジン・ジャンは純粋な肉の体現者であった。そして透も本の中で述べられているように「純粋な悪」の体現者である。
透は転生した姿なのかという疑問に対して慶子は透の余りの凡庸さを指してただの偽物であると言っているけど、「純粋な悪」という時点で清顕の転生たる資格十分では無いだろうか?
清顕と清顕の転生の「純粋さ」がことごとく何かしら大きなものに打ち砕かれて破滅したわけやけど、透の純粋さの破滅、つまり「純粋な悪」の破滅が「天使殺し」慶子によって引き起こされたと捉える事も出来る。慶子自身が特別美しかったり悪である人間は自然が見逃さずに根絶やしにするって言ってるくらいである。
そして透自体は20歳で死ななかったけど、その「純粋な悪」は文中に出てきた話である自分を猫だと思い込んでいる鼠と同じ手段で、自らの行いで自らの死を持って証明される事になる。
自分の純粋さを守るために死に望んだ彼ら、清顕と勲とジン・ジャンの死に様と、透の自分の純粋さを守るための死に臨む態度に決定的な相違を見出せない。結果、肉体の死でなく精神の死が訪れるわけやけど。
タイトルの『天人五衰』は六道の最高位である天人が死を向かえる前兆、つまり、衣服が垢で油染みる。頭上の華鬘が萎える。体が薄汚れて臭くなる。脇の下から汗が流れ出る。自分の席に戻るのを嫌がる。の五つの衰えをを指す言葉らしい。
そのタイトルが指すのは『豊穣の海』シリーズの語り部であり見者である本多繁邦が、理性と論理でこの世を汲み付くし、年老いて死を向かえようとしている事の比喩というよりは、余りにも直接的な表現であるわけやけど、それは同時に天人の死をも意味しているわけで、本多がこの物語後に死ぬ暗示でもあるだろう。
この本の最後で本多が聡子に会うことで、清顕を巡る転生自体が本多の「夢オチ」であるような捉え方が主流になっているような気がするけど、ホンマにそうか?
確かに本文中の所々で、登場人物が本多の伊のままに動きうる可能性を示唆してこれが本多の夢の中であると言う含みがあるようにも思える。でもこれら全てが夢オチであるよりは聡子がボケてると考えた方がわかりやすいし、そこまで言わなくても、聡子自身の言う記憶のあいまいさが自分自身を指しているとも取れる。
60年に及ぶ転生の秘密といった無常観溢れる世界の理が、これまた根底からひっくり返されるわけで、無常観の認識が強烈な無常観によって更にひっくり返される事で無常観がなくなるわけでは無いだろう。多分そこは無常観を超えた認識であるに違いない。
最後に本多自身の自意識は清顕の転生の一つの姿であることに気付く。
見るものであった本多が見られるものである清顕の転生へと融合してしまうわけで、ここに流れ自体であるアーラヤ識と自意識であるマナ識の関係が上手く現れているように思う。
見る物と見られるものの融合、そして無常観の認識の根拠すらひっくり返す更に強烈な無常観の訪れといった事を経験した本多は死に望むわけであるけど、天人も死ななければ輪廻からの解脱は無いのである。この「豊穣の海』の物語は本多の死によってこのあたりに結びつくようにも思えた。
ここで純粋さを失い、死すら失った透の姿は、逆説的な意味で象徴的なものとなるのである。

2件のコメント

  • 『豊饒の海』、お疲れ様でした(^▽^)
    最後に聡子の言ったことが、私にはかなり衝撃でした。私が二ヶ月かけて読んだ物語は一体何だったの~って(笑)
    この話を創り上げたのは本多の阿頼耶識である、ということ。私たちが日々実際に「見ている」「体験している」と思っている現実は全て、阿頼耶識がみせているものだということ、を聡子は本多に告げます。
    それを聞いた本多が「それなら、(中略)この私ですらも……」いなかったことになる、と叫んだ時私は確かにそうかもしれない、と納得でした。
    全てが無我・無常の流れである阿頼耶識から生じているのであれば、「私」という人間が確かに存在していると認識し自我に固執する末那識もまたその発生源の本質によって、それが認識する自我の存在の有無というものは恐らく(おかしな言いかたですが)全く意味を成さないものだろう、と思いました。
    つまり、この「私」は「私」ではない別の誰かの阿頼耶識が創り出したものかも知れないし、私が見ているこの景色・人は私が消滅するのと同時に消え失せるものかもしれない。
    「私」という人間が存在したという確固たる証拠は何一つ、ただ一つとしてない、ということなのですね。
    三島はこの小説を書き上げてすぐ、自害しました。
    土偶さんのおっしゃる通り、天人五衰を主人公の老い衰える姿に重ねるとともに、三島は自身の死にも重ねあわせたのだと思います。
    三島の自害した理由について、私はwikipediaで読んだことしか理解していませんが、老いを厭い、ナルシストで、個性的で強烈な美を想像したエリートであった三島にはこの世の様々なことが耐えられず、その結果この仏教思想を取り入れるようになったのでしょうね。そして本多は絶望のもとに叫んだ自身の存在の有無に関して、また世界の存在の有無に関して、三島は本多とは逆に納得して喜々として受けれたのだと思います。
    「夏の日盛りを浴びてしんとしている、記憶もない、何もない庭」へ三島は行きたかったのではないか、と私は思います。
    わっ、長々とすみませんm(><;)m
    物語の中に目を戻すと、私も聡子は呆けているか完全にしらを切っているか、さもなくばこれが聡子の尼僧としての修行の成果なのかと思います。
    また、透も四人目の転生した姿だと考えています。純粋さに破滅をもたらすのは死だけではないですよね。本多は自分ではそうと知らず、純粋さを放ってはおかないという自然のからくりに巻き込まれて、その役目を果たしたのだと思います。
    土偶さんが同じように読んでくださって、とても嬉しいです。
    この四巻の間に何度か本多の肩をポンって叩きたくなりました。色んな意味で不運な役回りでしたね(;▽;)(笑)

  • ん~お見事な感想というレベルを通り越した解説ありがとうございます。m(__)m
    確かに私も最後の最後で、おいおいそれはないだろう。と思いました。本多にそれを見させているのがアーラヤ識だというのはええとしても、唯識の意義である(と思う)種子とか薫習とかの話はどうなる?てな事も思ったけど、そこは無常と無我に収束するのかなとも思います。
    本多しかり、三島しかり、「愛」とか「救い」より「美」を選んじゃう人間てのは恐ろしいなぁと思いました。

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