檜垣 立哉 『ドゥルーズ~解けない問いを生きる』(シリーズ哲学のエッセンス)

amazon ASIN-4140093013お手軽な哲学系入門書の『シリーズ哲学のエッセンス』のドゥルーズを読了した。この手の本の問題点は思想家自身の著作にあたらずに、その人の思想を解ったような気になってしまうところやろうけど、「解ったような気になっている」域を出ないのだとちゃんと認識しておけば、とてもありがたくて為になる本になるはずである。NHK出版の企画に感謝である。
恥ずかしながら、この本を読むまでにドゥルーズについては、彼のが著したニーチェについての小論『ニーチェ』が家に転がっているくらいで(読んだはずだが内容は全く覚えていない…)、他の彼の著作を読んだ事は全く無い上に「ドゥルーズ?ポストモダンの人?」くらいの認識しかなかった。彼自身は「ポストモダン」なる言い方を嫌悪していたらしく失礼といえば失礼な話ではあるけど。
この本はドゥルーズの特定の著作についての入門書ではなく、ドゥルーズ全般の入門書ということらしく、なるほどドゥルーズがどういった考え方と語彙でどういった方向性を目指していたのかがなんとなく解ったような気がした。
定点と解答がグラグラふわふわしたポストモダンな世界の中で「世界」と「個体」をどのように位置づけ、そのなかでの「問い」がどのような発し方をなされてどのような意味を持つのかというところが、なかなかに解りやすくて、スリリングに解説されていたように思う。「解けない問いを生きる」というサブタイトルが最後までちゃんと意味を持っていた。


ドゥルーズは可能性ではない潜在性を秘めて常に生成変化する卵のようなものが世界であるという世界認識を前提に、人間は世界という大きな流れやシステム内の潜在性から生まれた問いのひとつの解答として表現された固体であると言っている。
例えば色々な生物の卵から器官が発現する例を挙げて、受精卵が卵割を繰り返しながら「光の受容」という問いに対して、多くの生物の場合は「目の発現」なる器官の生成という形で解答している。というイメージである。
その世界なるシステムのひとつの表現系であるあまりにも微小な個体は、認識なり特異性なりの定点には絶対にならず、「個人のかけがえのなさ」など存在せず、更には「本当の私のあり方探し」など言った方向性も全く意味を成さず、個人はその流動する卵の中の一部としてのみ初めて認識される。
そしてその個人の発する問いについては、「光の受容」という問いに大して、色々な形で「目なる器官の生成」なる解答をすることが出来るように、問いを解決するのが大事なのではなく、問いを創造すること自体に意味があるのだという。
流動する世界の何らかの解答としてあらゆるものが世界にあるわけであるけど、その解答を答えとして見るのではなく、問いが創造された事の一つの現れであるとして見れば、解答としての「差異性」や「多様性」は流れとしての世界をさまざまな方向性と可能性に分散させたという意味で肯定されることになる。
とここまでがこの本を読んでドゥルーズについてわかったつもりになっていることやけど、根本的に間違ってたり、大きく外れていることは無いやろうと思う。
こういった感じの、個を徹底的に否定しつつも、個と特異性を肯定する仕方はある意味アクロバチックなように感じるけど、ある意味ではとてもニューマニズム溢れてて結構和んだ。
彼は微分法を哲学に適用することで、人間や人間界の細かい観測点をつなぎ合わせて、関数的に世界を記述しようとしたようやけど、しかし、彼の言う世界という大きな流れの中から一つの問いに対する解答として人間が発現し、その人間からまた色々な問いに対する解答が発現し、またその発現したものから問いが出て…とより微小なものに循環してゆく構造は「コッホ曲線」そのものではないかと。微分法とフラクタルはちょっとそぐいにくいというか方向性逆やん!って気もする…
自然界のあらゆるところにフラクタルな図形が観測されるわけやけど、世界自体は、またそれに含まれる人間はどうしてもフラクタルにならざるを得ないわけで、観測の精度を細かくしてゆけば量がどんどん大きく見えてしまうのも当然である。
ということで、われわれがあまりにも無知であることはまぁしょうがないやねぇ。という気にならないこともない。
しかしながら「個」を全体性の一部として捕らえて軽んじる-言い方は悪いが-思想はやっぱりどことなく似てくるのやなぁと感心した。
ってドゥルーズと関係ないけど…

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