門脇 俊介 『フッサール ~心は世界にどうつながっているのか』 (シリーズ哲学のエッセンス)

ツール・ド・フランスも始まったという事で、もう乱読も乱読、読書の夏!
amazon ASIN-4140093110ということで門脇 俊介『フッサール ~心は世界にどうつながっているのか』を家に帰ってCD聴きながら一気に読んだ。
この間の 北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』を読んで、「よ~しパパ、ハイデガーでも勉強しちゃうぞ~」という事で、彼の方法論のベースとなっているらしい、彼のお師匠さんでもあるフッサールの現象学をごくごく基本的なところだけでも。てな動機で読んでみたのだが、正直言って良く判ったとは言いがたい。
それでもフッサールが「クオリア」と「信念」と「志向性」なる語彙で世界をどのように記述しなおそうとしたのかがおぼろげに見えたような気がしたし、またそれらの心的な方向性は、言語表現の指す「意味」に心的な「意義」をも付与して文に何らかの志向性を持たせる。てな感じに読み取れた。
でもって、フッサール自身の方向性としては、デカルト的な手法である、その存在を疑うことができない絶対的な「純粋意識」まで「現象学的還元」をなそうとしていた、と言うところだろうか?
なんか大きな勘違いをしているような気もするのだが…


全く予備知識無しで読みはじめ、しかも短時間で一気に読むような読み方をしたわけやけど、心で感じる「リンゴのあの赤い感じ」「海がまぶしいあの感じ」の「感じ」を表す言葉のクオリアの説明、クオリアが精神的活動として人を駆るシステムとしての志向性、~~が正しいとした上で言動を行う、その正しいと信ずる「信念」などの前半の話は、良く考えればフッサールの話じゃ無いやん…
んでもって、その「信念」の集積たる信念システムで世界を認識して描くってのが前半の骨子のようやけど、次の言語表現の話が、比較されているフレーゲの言ってる事なのか、フッサール自身が言ってる事なのか、それとも著者が思っているのか、更には内容も判り辛かった。
しかしながら、世界に対立して立つのではなく、「真理」に向かって「志向性」のある相互に影響し合う信念システムでもって世界を表象すると言うやり方は、なるほどハイデガーにつながって行くのだなという所は判ったのでよしとしておこう。

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