デニス・プレガー『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』/ユダヤ的知性とは二律背反から生まれる知性か?

デニス・プレガー『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』を読んだ。

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この本は「ユダヤ人」が太古の昔から現代に至るまで迫害され続けている一番の根本原因は非ユダヤ教徒によるユダヤ教そのものに対する反発と憎悪であり、一般的に理解されているような、キリストを殺したから、金持ちだから、優秀だから、スケープゴートが必要だったから、といった理由ではないことを、様々な時代や国やイデオロギーや思想によって為された「ユダヤ人迫害」の実例を元に考察するものであった。

この「ユダヤ人迫害」は文化や宗教の基盤が全く違う日本人にとって感覚として良く判らないもののひとつである。

その「ユダヤ人迫害」について書かれた本で、以前読んだ内田樹『私家版・ユダヤ文化論』は、迫害されるユダヤ人とは何者かというテーマを迫害する側の圧倒的な不条理としてではなく、<「迫害される理由」という政治的に正しくない志向>で論じた本であった。

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この本の中で、罪の意識から自責の念が生じるアーリア的な感覚とは逆の、先天的に自分に先立つ自責の念から罪の意識が生じる「遅れて到達した」感がユダヤ教的思考である。というところがとても印象的だったけど、この『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』ではユダヤ教の教義や内容についてもそこそこ説明されており、その内田先生のいう「遅れて到達した」感が、「棄民」や「試練」と言った文脈で捉えられるようなユダヤ教徒としてのアイデンティティーの一端としておぼろげに理解できたように思う。

そして、ユダヤ人の特徴のひとつとして優秀な人材を輩出する割合が圧倒的に高いというところがあるけど、それについても先日、大澤武男『ユダヤ人の教養:グローバリズム教育の三千年』でユダヤ教は紀元数世紀レベルの昔から整備されている、シナゴーグでのユダヤ教徒の子女の全てに対する教育制度によるものと、実に執拗で徹底的な迫害による様々な制約から生き残るための知恵やコネクションもユダヤ人の優秀さを育てた1つであるという趣旨の本を読んだ。

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この本ではユダヤ人に対する迫害の歴史の具体例とそれに対する生き残り策に触れつつも、迫害の理由そのものについては書かれていなかったけど、『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』は真正面からユダヤ教のどこに非ユダヤ教徒が反発を抱いたのかと言うところが論じてあった。

ユダヤ教は唯一神を設定し、その紙から選ばれた民がその律法に沿って生きるというスタンスなので、唯一神を認めるならその他のものは否定されるというゼロサムゲーム的な論理構造を持っており、ユダヤ教徒が自らの宗教に沿って真面目に生きれば生きるだけ、非ユダヤ教徒にとって自分達が否定されているように感じるというところが、ユダヤ人迫害の根本的な原因であるという。

確かにそういわれると、古代ギリシャから、ローマ、キリスト教やイスラム教国家、市民革命後のヨーロッパから共産主義や社会主義国家、そしてファシズム政権に至るまで、国家意識や国民の帰属意識といったものを強く国もつ国であればあるほど、市民の意識が高ければ高いほど、独自の強固な価値基盤を持つユダヤ教徒が迫害されたのが良くわかる。

絶対的に対立する複数のモノの中で1つのものを選ぶことが、残りのものを否定する行為でもあるということは、論理的には正しいのだろうけど、それは非ユダヤ教徒の論理でしかない。

そんな論理の帰結として自らを否定するものを否定して迫害するという判りやすい方法を非ユダヤ教徒は取ったわけであるけど、ユダヤ教の側からすれば、自らの価値と対立する外部世界、しかも自らを過酷に迫害する外部世界を受け入れつつ生き残ってきたわけで、対立する1つのものを選ぶともう1つを否定することになるという、非ユダヤ教徒のような単純な論理だけで自らの世界と外部世界の関係をを捉えて考えることなどとても出来なかっただろうし、そんな論理を超えた現実を生き抜いてきたわけである。

昔から「自己矛盾」とか「二律背反」や「テーゼとアンチテーゼ」などというものは哲学だけでなく、『風の歌を聴け』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで文学的な主要テーマの1つでもあり、真摯に自己や世界を見つめて日常生活を生きていれば誰でもが突き当たる大きな問題の1つでもある。

そして「ユダヤ教と非ユダヤ教の共存」も見方や言い方を変えれば同じように「自己矛盾」「二律背反」「テーゼとアンチテーゼ」などといった言葉で語られるのと同じ問題のひとつでもある。

この問題に対しての非ユダヤ教側による回答は歴史的に見れば相手側の否定という場合が殆どであったということになるけど、圧倒的マイノリティーであったユダヤ教側からすればこの問題はまさに自らの存在に関わる深刻な問題であっただろう。

ユダヤ人が民族的に創造的な知的レベルが高いと言わざるを得ないのは、様々に述べられるユダヤ教の教育制度であったり「遅れて到達した」感であったりはもちろんあるだろうけど、それに加えてこの自らのアイデンティティーと密接に関わる部分で「自己矛盾」「二律背反」「テーゼとアンチテーゼ」といったことをひたすら自らのテーマとして考え感じ抜いて来たと言う事もあるのではないだろうか。

ちょっとエラそうに言えば、本当の知性というものは何かしらを論理的に理解したり説明することよりもむしろ、論理を超えているものをいかに捉えていかに理解するかの方にこそ発揮されるように思うし、

そして、さらにエラそうにいえば、自己の存在の根本に近いところで自己矛盾に悩みぬき考え抜いた人ほど、そんな論理では説明できないことを捉えて理解する知性を持っているように経験的に思えるのだ。

「他に神が存在することを否定しない一神教」と「唯一神を認める多神教」とわざわざ対決図式で比較させるから問題が起こるのだ。

そして人類は、こういった一見相容れない「~と~の共存」と言ったような自己矛盾を克服してゆくことこで、知性的に進歩したと言えるのかもしれない。

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