エックハルト/月と琵琶湖と花火/成長って?

昼、シャレのような暑さの中、数時間おきに水風呂に入りながらやっとの事でマイスター・エックハルト『神の慰めの書』を読み終わった。
「見てしまった人」の孤独を彼の文章からひしひしと感じつつ、それでもなお彼が保ち続ける熱意と欲望から発せられる言葉は、彼と同じ道を歩もうとする人に対してなんと優しさに満ちていることか。
彼曰く「神は私よりも私に近く在す」「神御自身がわれわれと共に悩み給うのである。」
絶対的な自己放棄をして初めて、神と同一化した自己を認識するというプロセスはとてもは感動的であった。
夜、琵琶湖畔で花火をして月明りの下で泳ぐ。いや正確には琵琶湖に浸かると言った方が良いか。
日本一大きい湖と同じ大きさの巨大なお風呂に使っているように空を見上げながら、遥か昔に友人とこの場所で釣りをした事を思い出す。


こんな月の出ていた夜、我々は若者特有の訳のわからない上に矛先の向け方と飼い慣らし方を間違っていた欲望を抱きつつ、無心に湖面に映る月に向かってルアーを投げていたものだ。
あの頃からあまりにも隔たっている自分を深く思う。
夜の海や夜の湖で泳ぐのが好きだ。夜に水の中で泳いでいると、おぼろげに見える自分の体と光る波間の境界線が限りなくあいまいに感じられるうえに、月明りに水と溶け込んで白く映る自分の体がまるで綺麗なものでもあるかのように見える。
体を撫でて行く黒い水から感じる、ぼんやりとした恐怖と心地よさのない混ぜになった感覚が心地よい。
暗闇と圧倒的な自然の象徴である黒い水は自分自身の卑小さを教えてくれる。
遥か昔、友人とこの場所でブラックバスを釣っていた頃、成長すると言う事は手の届かないモノに次々と手をかけて征服し、色々な欲望を満たしつつ上に上って行く事だと思っていた。そうはっきりと言葉にしないながらもぼんやりとこんな風な感覚を抱いていた。
当時、我々は何者でもなかったし何物も持っていなかったけど可能性だけはあったような気がする。その可能性と欲望だけで色々な事を思い描いていたのだろう。
いや、今思えば今は失われたとても素晴らしいモノをいくつも持っていたようにも思える。
しかし今、あまりに卑小な自分を知るにつれ、卑小な自分の抱きうる欲望や願望などたかが知れているし、それらがが叶えられようが叶えられまいが大した違いはないのではないかと思える。
「成長する」とは自身の望む何かを手に入れる力をつける事ではなく、その何かを望みつつも、それがあってもなくてもどちらでもいいようになる事ではないかと思うようになって来た。
願望や欲求を実現する事ではなく、それらを願望や欲望として抱いているということ、またその別の何かは願望や欲望として全く望んでいないことを事実として捉える事に意義があるのだろう。
何に対して欲望と欲求を抱きえるのか、という事と、その欲求や欲望をどう取り扱うのか、その二つは全く別の話であるけど、そのどちらもが大事であるところが難しい。
どちらが不足しても過剰でも、どちらかを拒食しても過食しても大変だもの。
とか思った、暑い暑い日曜日であった。

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