土用の丑の日/他人に帰するものを目的とする体系
この日は土用の丑の日、客がオッサンばかりの私が好きな美味しい魚を出すまぁまぁ安い(ココが大事)居酒屋に行く。
実は次の日も別の場所にある同じ系列の店に行く予定になっていたのやけど。
今まで、「この事については一生理解される事はないであろう」と自分の中で既に決定がなされていた事柄について、それがなんともたまらん苦しみの一つである事を説明するたびに、バカにされたり、否定されたり、怖がられたり、笑われたり、利用すべき弱みとして捉えられたりするのにはっきり言ってうんざりであった。なんで説明するだけでグサグサされんとあかんねんと。
ということで、その事についてはずいぶん前に処世術というか精神衛生上の問題から「そもそも理解されたところでどうなると言うものではないうえに、絶対に理解されないのだから説明を試みる必要もない」と既に結論が出ていたはずやった。
しかしながら「それが苦しみの一種である事」を初めて生身の人間に理解されたと感じた上に「それは最も苦しい事の一つである」というような意味の言葉まで聞いてとても嬉しかった。
自分自身がある程度まともな人間であると言う気もがしたし、心底ホッとした。
それに何より現実的に私と同じような意味で苦しんでいる人がいくらでもいると言う事実の提示は、なんとなく私を元気にしてくれるように思えた。
質問の意味自体が理解されない世界に慣れ過ぎていたせいで、このような事があろうとはよもや思っていなかった。
とはいっても、理解されると言う事は、ただ理解されたと言うだけで、理解された事についての問題が決して解決するわけではない。なんとなれば結局のところそれは自分自身の問題でしかないし、それと対峙するのも自分自身でしかないからだ。
それでも、「教育」ってのは何かを一方的に真実として教えるのではなく、自分ひとりで考える事が出来るような方向に導くのである。ってな良く言われるような「教育」なる力の根本的な一面を現実的な存在として垣間見たような気がする。
知識を伝える事で導く事もあれば、力づけたり一緒に悩んだり考えたり怒る事で導く事も出来るのである。
なるほど何かと必死に戦っている「被教育者」に対する「教育者」なる人種の力と言うか偉大さを知ったものの、その教育者自身は一体何を求めているのだろう?という問いに対する答えが激しく胸キュンであった。
胸キュンながらも他人に対する目標と自分自身の目標が循環して論理的に破綻しているようかに見えたのは、自分自身に帰するものだけが目的となりえる。とする前提から出発したゆえであった。
他人に関わるものである事を自己の目的とし、より他人が自己と関わる意味がある自己となるのを自己目的とする。他人に帰するものを目的とする体系があるのにはちょっと驚いた。
よもや本当にそんなものが存在しうるとは。
そういった教育者のあり方にとてつもない孤独を感じ見る私は恐らく考えすぎなのだろう。「他人に帰するものを目的とする体系」にあって、そういったあり方は孤独でもなんでもないのかもしれない。
そういえば、そう思って回りを見まわすと良く理解出来なかった友人の行動が「他人に帰するものを目的とする体系」に基づくものだと言う事が見えて見た。
「あいつが自分の人生から消えたところで何とも思わないけど、何故か相手をしてしまう。」事の理由は「他人に帰するものを目的とする体系」から解釈すれば納得できるのであった。んなるほどー
何れにせよこういった場にめぐり合わせてくれた「縁」なるものに感謝であった。
この「縁」だけでなく、私に関わる全ての「縁」なるものに幸多かれ。と祝福しよう。
みんみん(このフレーズ気に入った)