「端から見たバカさ加減」と「当人達の面白がり加減」は比例する

前日に続きお魚居酒屋へ行く。この店は立地条件のせいか前日の店よりオヤジ度が高く、店の客全員が例外なくおっちゃんであった。
なんだかわからないテンションで盛り上がるおっちゃんたちをはたから見ていると、愛らしいような見苦しいような哀しいような不思議な気分になってくる。
ルービックキューブを全色揃える様をいかにも胡散臭げな顔で見て、六面完成させると「うわっほんまに揃った!キモっ!」とあるレディーに言われた。
私からすれば「ただの覚えゲーやし大した事ないぜよ」と言ったところやけど、彼女から見れば「おれは人間をやめるぞーーッッ!」と言ったところなのだろう。


妙なテンションではしゃぎ回るおっちゃんたち、ルービックキューブで全色揃える人、本人は楽しがっているけど、端から見ると明らかに異様に見えたりバカに見えたりする事は多い。
例えば、道を歩いている時に、ふとどこかの家の中に座ってテレビを見てる人が見えた時、彼らの頭の悪そうに見える度合いは尋常ではない。
テレビを見ている人も我々がテレビを見ている時も、この姿を家の外から見ればこれほどバカっぽく見えるとは予想もしていないだろう。
こと恋愛に関する事、排泄に関する事、食事に関する事、睡眠に関する事についてはその「端から見たときのバカさ加減」が高いような気がする。
これらの事実の集積から、はたから見るとこれだけバカに見えるねんから自分も気をつけよう。と言う結論を出すのはあまりに簡単である。
しかしながら、「端から見たときのバカさ加減」をゼロにする事はどう考えても無理だし、「「端から見るとバカ」から抜け出す事は不可能であると言わざるを得ない。
人間はその存在として「はたから見ればバカ」でしかありえないのだろう。
良く良く考えてみるに「端から見たときのバカさ加減」と「当人達の面白がり方度合い」は比例関係にあるような気がする。端から見ればバカに見えれば見えるだけ、当人たちは楽しいのである。
経験的に言って、若い頃を思い出して見ればその行為がバカであればあるだけ、その楽しさも大きな物として感じられるのは誰もが経験する事であろう。
ということで、端から見てバカに見えても、そのバカの分だけ本人は楽しいねんし、見てる自分でもそれは同じやねんからバカ扱いしてはいかんなと思ったお誕生会であった。みんみん。

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