もつ鍋とカニバリズム

先日行ったモツ鍋屋さんはかなりの人気があるようで、土日は予約が出来ず、二時間待ちは当たり前、かといって平日に予約しようとしても、常に予約が埋まった状態で、かなり先の予約しか出来ないらしい。
モツ鍋屋さんに人が殺到して順番待ちしてるのは、なんか提供が追いつかない臓器移植を待ち続ける患者の群れに混ざったような気がする。
で、やっとのことでドナーから提供された臓器であるので、謹んで私のモツに納めた。〆のとろろ&高菜のうどんの量がかなり多くて大変であった。
特定の内臓の部位が、食べ物であるモツとして呼ばれる場合に、日常使わない単語になるとリアルさが薄れるような気がする。
大動脈、気管、大腸と呼ぶよりは、コリコリ、ウルテ、テッチャンと呼ぶ方が食べやすいような気もする。
またフォアグラは人為的に脂肪肝だか肝硬変だかにした内臓脂肪満載のガチョウの肝臓なので、その世界三大珍味のひとつも「メタボリック脂肪肝のテリーヌ」というと、食べる人なんかほとんどいなくなるだろう。
逆に、医者にあなたのレバーとかあなたのバラ肉と言われたりするのも気分のいいものじゃない。
食べ物の話を医学や生物学の単語で、また医学や生物の話を食べ物の単語で言うのは趣味の良い事じゃないけど、これほど極端に気分の良いもので無くなるのは不思議と言えば不思議である。


内臓や肉の部位の名称を自分にはあてはまらない単語で呼びかえると言う事は、食べるものは自分と関わりの無い事ですよ。という意識の現れであるし、逆に、食べるものを医療系に例えると言うことは、自分に食べられる対象としての食物と、医療でもって治癒される対象である自分を、同じ次元で捉えることでもあろうか。
それは自分自身が自分の食べているものと本質的に同じであり、自らもまた、何者かによって食べられる可能性のある存在であると言うことを認めることでもある。
自分が動物を殺して肉を食っている。という意識は、自分もより強いものに殺されて食われる。という意識と表裏一体であろう。
食べられるものとしての自分、なる認識は気分のいいものじゃないし、食べ物としての肉体は、自分の肉体とは関わりのないものであって欲しいと言う感覚は良く解る。
「食う食われる」は自然界では当然の話やけど、生態系の頂点である人間を日常的な蛋白源としている生物はいない。可能性として人間に対する捕食者となりえるのは人間だろう。
生態系の頂上に君臨する人間にとって、自分自身が食べられる可能性は、自分自身が人を食べる可能性につながってくる。食べ物を自分と同一視することの嫌悪感は、自分が食べられる事と、他人を食べる事に対する嫌悪感でもあるかもしれない。
人間が、自分が食べるだけの存在であって、食べられる存在ではない、と意識することは、カニバリズムをタブーとする感覚に密接にリンクしているのかもしれない。
などと言ったことを考えながら、もつ鍋を食べるととたんに美味しくなさそうになるだろうと思った。

2件のコメント

  • おもしろく読んだ。
    美味しいもつ鍋やさんを見つけたら
    また教えて。

  • ありがとうございまーす(^^ゞ
    ↑で行った白味噌ベースのもつ鍋やさんは、美味しいのは美味しいけど、「もつ」とは別の所で美味しいような気がします。

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