エリザベス キューブラー・ロス 『死ぬ瞬間の対話』
先日エリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んだ後に、二作目を読むつもりが、間違ってシリーズ三作目である『続・死ぬ瞬間』を読んだのだが、やっとシリーズ二作目の『死ぬ瞬間の対話』を読むことが出来た。
一作目の『死ぬ瞬間』の内容は、末期患者が「死の受容への五段階」と言われるプロセスを通って死を受け入れることを実例を示して提示し、死をいかに迎え、いかに送るのが望ましいか。というところが骨子になっていたが、このシリーズ二作目は、一作目の「死の受容への五段階」を前提や共通の知識とした上で、実際の講演会やセミナーや勉強会で交わされた、医者や看護士や牧師や患者や患者の家族などの質問に、著者自身が答えてゆくといった、いわゆる「Q&A」形式で構成された本である。
とはいっても、ただ質疑応答を羅列するだけではなく、例えば「自殺と末期疾患」「延命」という風に、何かしらのテーマを提示してその問題点や背景を少し解説した後、そのテーマに即した質問と回答が集めてある。
これだけの量の質問とその回答があれば読者の感じる疑問や問題と近いものがひとつくらいはあるだろう。
大抵の本がそうであるように、シリーズ一作目は、何かしらの問題点と新しい方向性を示して、新しい動きを生み出そうとしていたような、どちらかと言うと著者から読者への新しい概念のプッシュであった。
一作目で展開された主張がかなり浸透して、限定的であれ特定の場所ではある程度当然で標準的なものとなった二作目の段階では、そういった主張自体ではなく、それに基づいて具体的な事例に対処しようとする方向性を、この本は持っているように思う。
そしてその方向性は、こういった抽象的な概念自体を言葉でウダウダいうだけでなく、実際の現実に即した適応性を発揮してこそ意味を持つ。といった著者自身の方向性をも現しているように見える。
結局、死の問題と言うのは、著者にとってとても身近で重要度の高い、自分自身の問題であると言うことなのだろう。
述べられる内容自体は一作目を踏襲したもので、そこからら発展した主張は展開されないけど、質疑応答という形式で末期患者や病院スタッフに答えるという構成上、死に臨む人と接する人に重点が置かれている。
テクニカルな面をもつプロフェッショナルであるよりも率直に一個の人間として接する事、五段階のステップアップよりも本人の望みを優先させる事、感情を抑えるのでなく存分に表現する方が望ましい事、などが特に強調されている。
この質疑応答を読む限り、彼女はこの段階で「死後の生」を確信しており、そういったことを含有して「死」を捉えていることが見て取れる。
後に展開されことになるらしい、「死後の生」や「神秘体験」などの、どちらかと言うと「あっちの世界」の話や、おおっぴらに言うと胡散臭く感じるような話はごく早くから彼女の中にあったのだろう。
しかし著者はここから先は自分だけの問題で、ここまでは誰にでも当てはまる問題であるという線引きをとても明確に出来る人であるように感じた。
一貫して著者は、特定の宗教や心情や「死後の生」はもちろんのこと、「死の受容への五段階」すら、患者や患者の家族に押し付けてはいけないし、そのステップを通ることが「誰にとっても最上の道」ではなく、「一般的に最上の道である場合が多い」と繰り返し主張している。
その人にとって一番苦しみが少なく幸せが多い道が最上である。と主張することは、当たり前なようでいて、彼女のような持論を持つ人にとって中々難しいと思う。
しかし、ネット上で集めた情報によれば、彼女は後年になると、終末医療だけでなく、「死後の生」や「神秘体験」と言った、どちらかと言うと、いわゆる「スピリチュアル」なる単語で表されるような、如何わしくて胡散臭い方向性の主張を展開したとされるようだ。
そういった主張を個人の信念として持っていることと、既成の宗教のバックボーンなしに、医療者としての彼女の立場で、公の場で真理として主張することは全く違う。
私は彼女がそういった主張を持っている事自体は素晴らしい事やけど、それを積極的に主張するようになった事は、どちらかと言うと残念な事として捉えている。
一冊目から三冊目までの本を読んだ限り、彼女個人がそういった信念を持っていても、そういったことを、彼女自身が直接的な個人的つながりの無い人に向かって声高に主張するとはとても思えない。
こういった微妙な事に関する情報はとかく誇張されがちでもあるので、彼女が本当にそういう人になってしまったのか、また彼女がどういったトーンでそういった事の述べたのか、自分自身で後年の本をもう一冊読んでみようと思った。