もう「消費」すら快楽じゃない「市民」へ
2008年12月10日
奴隷制度の発達に伴ってギリシャやローマの民主(風)社会はその文化と社会を繁栄させたけど、ギリシアのポリス社会の衰退やローマの共和制の崩壊は、エスカレートした奴隷制度から生まれた歪が極端な貧富の差となって社会全体を覆ったものであると言える。
てな感じの事が「世界史B」の参考書に書いてあるので、恐らくこれはある程度一般的な歴史的な見方なのであろう。
奴隷は無給で奴隷として使うよりも、薄給と消費者の立場を与えたほうが資本家は潤うという試算からすれば、奴隷を所有するよりも使い捨てにする現代はより洗練された形の奴隷制度であるという意見は、なんとなく感覚としてよくわかるような気がする。
不景気でいろいろな社会体制や社会制度が危機に瀕しているといっても、それはギリシャやローマのように奴隷制度ともども社会が崩壊する前兆ではなく、逆に現代の奴隷制度はその奴隷制度をより強固なものにする方向へと向かっているようになんとなく思う。
執政官やら元老院は支配者としての、ポリス市民やローマ市民はより市民としての、奴隷はより奴隷としての自覚が深く意識されるようになるに違いない。
奴隷制度に肯定すべき点があるとしたら、ギリシャやローマがそうであったように、文化の発展以外に無いという見方がある。
現代はより激しい奴隷制度の社会へと移行するのやろうけど、現代の奴隷制度で生まれた余剰物を元に、現代の市民がまともな文化や価値を生み出せるとはとても思えない。
奴隷を「消費」し、奴隷制度すら「消費」した先にはいったい何があるのだろう?
などと、最近の社会情勢を人から聞き、寝る前に歴史の参考書を読んで思ったのであった。