「活字ドラッグ」と「児童書」と「依存症」と私?
その場限りで後に引き摺らず、後遺症も残留物もないのが麻薬として良質なものだとされるけど、先日読んだジュール ヴェルヌの 『神秘の島』 を純粋な「活字ドラッグ」として見れば最高の部類に位置するだろう。
読んでいる最中のトリップ感と没頭感、そして読後感の爽やかさとなにものも心に残さないさっぱり感もすばらしい。
なるほど子供のうちにこういった良質な「活字ドラッグ」を体験させておけば、大きくなってもその味を忘れられないだろう。
今でこそそんなことはなくなったけど、若いころはその「活字ドラッグ」にドラッグとしての効き目の長さと強烈さだけでなく、日常からの逃避と、あわよくば自分の中身すら一変させてしまうほどの何物かを求めていた。
この場合は本であるにしても、よく考えれば外的な要因によってそういったものを求めるのは、薬物や苦行でも手段はなんでもいいから神秘体験に似たなにかを誘発し、それによって自己変革の一環とするような、ある特定の時代に流行ったサブカルチャーや、ある特定の宗教の持つ傾向となんら変わりないように思う。
よく考えればアブナイ話やなぁ…などと今更ながらに思うが、それでもそういった種類のものは人を依存させるほどのものを持っているのは確かだろう。
どう見てもアルコール依存症にしか見えない人が自分自身を「酒が好きなだけ」と言っているのを聞いて唖然とした事がある。
しかし、「寝る前に布団の中で本を読むのは幸せ」「可能な限り寝る前に本を読む」「私はただの本好き」と思っている私自身はどうなのだろう。
依存症とまでは言えないかもしれないけど、まったく依存していないとは言えないだろう。
日常生活や社会生活に支障が出ることが依存症が病気とされるかどうかの分かれ目であるそうだが、私自身はそれが何かの支障になるなどとは全く想像もせずにあまりにも長く続けてきた習慣なので、これが何かの支障になっていたのかどうか全くわからない。
本当に支障が出ていないと言い切れるだろうか?と考えるとなんともいえない恐怖が這い上がってくる。
私の今までの本読み体験によって、今の私の根本的な欠陥や欠損が形作られ増幅されてきたのだとしたら、日常生活や社会生活どころか、すでに人生すべてに支障が出ている、と言えるかもしれないのだ。
そう考えるのは異次元に開いている落とし穴に訳の分らないままに落ちてしまうような気持ち悪さを感じる。
そんな視点で周りを見回してみれば、そこかしこに開いている不可視の落とし穴から漏れて来る光や闇のなんと多いことか。
我々はなんと無造作にその上を歩いていることか。