映画:「バットマン・リターンズ」 / 虐げられるものとしての異形の怒り

amazon ASIN-B00005HC7I2008年公開の「ダークナイト」の予習のために観た「バットマン」(1989/米)と「バットマン・リターンズ」(1992/米)のうち「バットマン」の感想は先日書いたので、残りの「バットマン・リターンズ (1992/米)の感想を。
『異形への愛』がこめられたこのシリーズ二作目でバットマンと戦うことになる「異形」は「ペンギン」と「キャットウーマン」である。
ネットではこの映画こそがシリーズ最高傑作であるという声も多いように、ペンギンとキャットーウーマンの運命に始まり、独特の世界観に包まれたゴッサムシティーで繰り広げられる適度のアクションと陰謀で構成されたこの映画はとても面白かった。


前回の「ジョーカー」が異形となることで自らの力を解放して増幅させたのに引き換え、「ペンギン」は最初から異形として生まれたものであり、異形そのものが力へのきっかけになったというよりは、異形であることで虐げられ続けてきた事への怒りや悲しみが力になっていたと言う意味でどちらかと言うと我々にわかりやすくはある。
分りやすくあるからこそ彼の悲哀が悲哀として伝わってくるのだろう。
キャットウーマンもあまりにも地味でぱっとしない生活の上に人格が破綻して、そういったコンプレックスの反発としてキャットウーマンになったわけであるから、ペンギンと同様に自分が異形であることのコンプレックスからキャットウーマンとしての力を持ったわけで、なるほど彼女の感覚も確かによく理解できる。
この映画が前作と比べて良いとされるのはこの敵役二人の悲哀による部分が大きいようであるけど、それは「異形」であるが故に虐げられて苦しんで悲しみ、やがてそれが爆発して虐げたものに対して復習を開始する。と言ったような、我々にとてもわかりやすいキャラクター造詣であるからであろう。
前作のジャック・ニコルソンの「ジョーカー」はやることなすことの意味が全く分らなかった。異形になる前から訳が分らない人間で、偉業になることでさらに訳が分らなくなった。
彼は本当に我々の理解を超えたところにいると言う意味で異形なのであった。
この「バットマン・リターンズ」観ることで「バットマン」のジョーカーの異形っぷりがより強烈であったことを理解できるのであった。
しかし、キャットウーマンがバットマンに敵対する理由が最後まで分らなかったし今でも分らない。
キャットウーマンは味方であるペンギンの敵であると言う理由でバットマンを敵とみなしていたのだろうか?

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