八百万の土偶 / 複雑系は人間系

最近疎遠になっていた人とメールなどで連絡を取ったり会ったすることになったり、逆によく会っていた人と会わなくなったり、ほとんどちゃんと喋った事のなかった人と長く話したり、まったく新しい共有ブログに書き手として参加したり、と私の周りの「関係」の環境が少しずつ変わってきたような気がする。
色々な人と色々な属性で語りあい、別のブログにまったく違うキャラとして書き込みを行ってふと、はたしてこれが同じ私という人間であるのかと思った。
相手によって、場所によって、立場によって私はまったく別のことを考え、別のことを想い、別のことを話す人間となる。
マイナス浮力で海底に押し付けられながらたった一匹の魚を殺意の眼差しで銛を構えて眺めている私と、何百台ものコンピュータの特定のシステムをスクリプトひとつでリモートから一元的に制御している私は全く別の人間に見えるだろう。
人間存在の複雑と多様さを人間存在の分裂状態とは呼ばないように、人間個人の中の多様さと複雑さは、分裂状態ではなく人間存在そのものの反映であるのかもしれない。
個々の人間はひとつの統合された人格なのではなく、複雑で多様なひとつの系に過ぎないのかもしれない。そしてそれが人間そのもののあり方でもあると。


自らの内部で激しく熱を放つ矛盾、引き裂かれるような思い、解決される見込みのない二律背反、そういったものはすべて、特定の矛盾した属性を持つ特定の人間が何かしらのマイナス方向に傾く事で生まれるのではなく、個としての人間が人間存在そのものに近づく事によって生まれてくるのだと考えると、自分がそういった状態に陥る事態を少しは楽に肯定的にとらえられるかもしれないと思う。
人間存在の多様さと複雑さは人間個人の中にある多様さと複雑さでもある。
そして自らに人間存在の複雑さと多様さを背負うことが、人間個人への理解と優しさを深めるものであれば良いと思った。



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