like a pomp cup/見ろ!人がまるでポンプカップのようだ!

昨日、散々「ポンプカップ」とブログに書き綴っていて思ったことがある。
当初はなんとも思わなかった「ポンプカップ」という単語も、こう何度も書いていると妙に笑える単語のように思えて来る。最初は数ppmの濃度だった卑猥さが他のものと交じり合って濃縮されて浮かび上がってくるのだ。
そういえば店員さんに「コールマンのポンプカップなんですけど~?」って聞くために声に出した時、ファミレスで「発音するのが恥ずかしい名前の食べ物」を注文する時のような、ほんの少しの羞恥を感じたのはこのせいに違いない。
ただのオッサンである私がポンプカップを買い求めたところで何の違和感も無いが、極端な設定にしてみるとこの「ポンプカップ」という言葉がちょっと口にするには微妙に恥ずかしい単語であるのがお分かりいただけようと思う。
たとえば、、ユニコーンもその首をうな垂れるほどの、黒髪前髪パッツンなうら若き乙女が「コールマンのポンプカップ下さいっ!」と頬を真っ赤に染めながら言っているところを想像するとどうだろう?
また、「コールマンのポンプカップ」とだけ聞けばアメリカンなアウトドア用品の何かの部品だろうとしか思わないけど「ユマ・サーマンのポンプカップ」「ふ~みんのポンプカップ」というととたんに何に使うための道具か、それどころかそれが何かの部品かどうかすらわからなくなってくる。


どうだろう?「ポンプカップ」が如何に多くの意味を含有している単語であると言う事がお分かりいただけようと思う。何かを「ありとあらゆる可能性のある」と形容する場合、「まるでポンプカップのような」と言い換えても良いくらいである。
用例として、某ムスカ氏の名台詞をポンプカップに置き換えてみると「見ろ!人がまるでポンプカップのようだ!」などと使うと最大限の褒め言葉になったりするのである。
普段何気なく生きている我々には気付かないが、実は「ポンプカップ」のように如何様にも飛躍しうる可能性のあるものに囲まれて、我々は生きていることに気付かせてくれるポンプカップなのであった。



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