余りにも人間的な重い扉が開くという事

大学時代の友人と夜から集まってうだうだしていた。
夕方から夜が明けて朝になるまでひたすら食べまくり飲みまくって喋りまくっていた。
東京から参加する者、中国から帰国して参加する者、仕事後に名古屋から新幹線に乗って一次会に参加し、最終の新幹線でまた名古屋にとんぼ返りする者、久しぶりに会ったような気がするが考えてみれば前に正月休みに集まっているので、まあ半年程度でしかない。
それぞれがそれぞれ全く違う方向性で違う仕事をし、全く違う状況に置かれていても、喋ってみれば昔と大して違わない事が良く分る。
お互いが日常的に全く接点がなく、全く違う世界に属しているからこそ話せる事というのはとても多い。
朝になろうとするダーツバーの中の喧騒の中、殆ど叫ぶように喋らなければ話が聞き取りにくい程に周りが騒がしく、我々の中の数人以外の店にいる全員がダーツに夢中になっている中で酒を飲みながら話し込んでいると、ほんの少しだけ話し込んでいる人間の自己の最も深くて暗いところへと続く重い扉が開く瞬間がある。
そしてその一瞬、いつもは深い闇の中に封じ込められていたものどもが開いた扉を目掛けていっせいに押し寄せてくるのだ。


いつも囲まれているしがらみの中では決して話せないことを叫ぶようにして話し、聴いてもらい、そして頷いてもらっていると、自分の中の深くて暗いところで激しく渦を巻いている自罰感情だとか自己嫌悪の感情が徐々に薄れて行くような気がする。
そして自らの暗いところに匿っていたものを開放したところで、それらは余りにもありきたりのものであるに過ぎないし、余りにもチープな問題にしか見えないことを感じる。
それぞれがそれぞれの余りにもチープな地獄とどん詰まりの中で余りにも愚かに叫ぶ様は人間そのものの姿のように思える。
つまりはチープな地獄とチープなどん詰まりの中で、愚かに叫ぶことこそが人間存在の一側面であるのだろう。
そして、私だけではなく等しく同じに余りにも人間的であるに過ぎないことがなぜか安心を与えてくれるのだ。
夕方から朝にかけて三食食べた。そして最後に別れ際に我々は更に牛丼を食べた。
外ですずめがチュンチュン鳴いている中、カウンターに並んだ我々は黙って静かに黙々と運ばれてきた牛丼を口に運ぶ。
それはどこか宗教的な儀式にも似ているように思える。
妙に高ぶりつつも朦朧とする意識の中、一斉に襲ってくる睡魔と闘いながら見る朝の光がとても眩しい。
そう、明けようとする世界の光はとても眩しいのだ。
なんだかこの感覚は本当に久しぶりであるような気がする。
無駄な希望とエネルギーと全能感に満ち溢れて妙なテンションで夜中遊んで気付いたら朝になっていて一瞬我に返りそうになるようなあの感覚。
おぼろげに記憶に残るほどの大学時代の昔に抱いたことのある、妙な希望と妙な期待と、どこか素晴らしい未来に辿り着けるかもしれないというぼんやりとして無根拠な確信に満ちていたあの感覚である。
徹夜明けの意識のせいか、本当に久しぶりに世界が全く新しい希望に満ちたもののように見えた。
そしてそう思うと同時に自分が誕生日の朝を迎えている事を思い出したのであった。
この年になると誕生日というのはただ過ぎ去ってゆく、何の変哲もない一日に過ぎない。
それでも、この感覚を中年も中年の誕生日の朝に迎えられたというのは喜ばしい事ような気がする。
そして、誰にも気付かれことなくひっそりと迎えた誕生日の朝が喜ばしいというのは、とてもあり得ざるべき素晴らしく良いことのような気がするのであった。

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