非日常から日常に戻る

昼間はあれだけ熱かった太陽が沈むととたんに涼しくなる。
自転車で切る風が涼しく、蝉の声に変わって鳴く虫の声が聞こえる。
これだけ熱くても確実に秋がやってきているのを実感する。
涼しい風と虫の声を聞きながら自転車を漕ぎ、過ぎ去ったこの夏の事、過ぎ去ってしまった今までの事、そして過ぎ去った今日の事に想いを向ける。
選べたであろう可能性、選ぶべきであった可能性、そしてもしかしてこれから選べるかもしれない可能性、それらは全て「必然」なる概念に暴力的に巻き込まれて見分けがつかなくなってしまう。
人間が日々生きてゆく中で、この時、この瞬間があるからこそ生きて行けると思える時間が人にはある。
それは人によって友人や恋人や家族との時間であったり、どこかへ出かけたり美味しいものを食べる時間であったり、また趣味や仕事や社会活動に没頭する時間であったり、時には自分の頭の中の妄想であったりと実にさまざまである。
そしてそれは、たいていの場合いつも暮らしている「日常」と捉えられるものそのものではない、多かれ少なかれその日常を越えたあたりにある何ものかを生きる楽しみにしている人が多いように思う。
もちろん日常そのものが生きる意義と直結している人もいるが、日常そのものが面白くてしょうがないという人が果たしてどれだけいるだろうか?そして、日常を超えたその「何ものか」なしで生きることのどれだけ辛いことか。
極端な話、貧困、飢餓、内戦などに巻き込まれてギリギリの生活を送る人たちの苦しみは、そういった非日常無しでギリギリのラインの生死のかかった日常にのみ全ての時間が埋め尽くされてしまうことから端を発しているような気もする。


そして、そこまで行かなくても、たいていの人は特に大して面白くもない日常の合間に点在する、そういう何かしらの「点」を結ぶことによって「線」としての生を生きているように見える。
それは、とても嫌な見方と言い方をすれば、日常を超える非日常に浮かび上がって息を継ぐことで、日常に埋もれて窒息してしまわずに何とか命を繋いでいるようにすら見える。
一体我々は「非日常」の合間に「日常」を生きているのだろうか?それとも「日常」の合間に「非日常」を生きているのだろうか?
結局それは「精力的に仕事をこなすためにバカンスを楽しみます」的な日常を快適に過ごすために非日常に身を置くスタンスか、「カーニバルに全てをつぎ込むために一年間頑張って働いてます」的な非日常を過ごすために日常をこなすかのスタンスの違いだけに過ぎないように見える。
そして、それでもその二つのスタンスの間には余りにも大きな差があるようにも見える。
あまりにも強烈な非日常の経験は日常の価値を限りなく低く感じさせてしまう。日常の取るに足らなさをこれでもかと強調してしまう強力な力がそこにはある。
強烈な非日常を生きるために日常を生きるというのは、構造的に麻薬依存だとかギャンブル依存だとかの精神依存の側面の土台と同じである。当然そこにはそれなりの危険性があり、極まることなく常に強い刺激を求め続ける悪循環へと陥る可能性がある。
とはいえ、そうやって生きることでなんとか死なずに生き延びている人たちも数多くいる。そういった人たちに対して、そういった生き方を否定するいかなる理由もないだろう。生き延びるために行われる事の殆どを否定する事はとても難しい。
しかし、最近流行の本のタイトルのような「生き延びるため」のレベルを超えてしまえば、そういった非日常の経験は日常を否定するものではなく、日常そのものと日常を生きることを肯定して意義を与えるものでなければいけないと思う。少なくともそういった方向性にあるものとして捉えなければ、その姿は余りにも悲しい。
非日常が豊かであればあるほど、日常もまたその光に照らされて明るく豊かになるようなものでなければ、非日常は日常から肯定されるものにならないだろう。
自分の中の日常と非日常がお互いを否定しあいそのギャップが広がるということは、すなわち、自分の中の分裂や混乱もまた深くなっているということでもあるような気がする。
神谷美恵子の『生きがいについて』での最後の三つの章が「精神的な生きがい」→「心の世界の変革」と続き、最終章で「現世へのもどりかた」とあるのは伊達でも酔狂でもネタでもない、この章立だけでも考えれば考えるほどジワジワ来る重みがあるのである。
まぁ、日常そのものを修行の場と捉えれば、むしろ辛くて当然である。と言えなくもないですわな。

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