やっぱりムリヤリ以外の何者でもない

何か一つの事実に対して誰かは肯定的な意見を持ち、また誰かは否定的な意見を持つだろうというのは、そのことは間違いではないと言う意味で「事実」に関する事やけど、
特定のあの人はその事実に対して肯定的な見方をし、また別のあの人は否定的な見方をするだろうと予測するのはあくまで予測に過ぎない。実際ホンマの所はどうか判らんからだ。
その人の見方を実際に聞くまでは、その人が肯定的に思っているのか否定的に思っているのかは、生死が未決定な状態の「シュレディンガーの猫」のようなコペンハーゲン解釈にとどまるしかない。(たとえの使い方間違ってるな…)


しかしながら実生活のレベルの感覚に捉えられる事実では、「未決定」なんつーものはないわけで、捉えられない、あるいは判らない事は単純に「未知」に過ぎないわけやけど、
結局、聞いたところでその人が本当の事を言っているかどうかは「事実」として示せないわけで、完全な意味での「事実」が判るわけでは決してない。
「未決定」が「決定」されて理解される事はそもそもなくって、かといって「未知」であった事が「知」になる事も難しいというわけだ。
何かの事実が明らかになるまではそれが「未決定」だとするのは感覚的に違和感があったとしても、それが「未知」だとするエヴァレット解釈のような世界観は多世界的解釈を派生させるわけで、これもすんなり受け入れられるわけでもない。
結局、自分にとって何が「真実」であるかは、その事実を教えてくれた人物が自分にとってどれだけ信用できるか。だけに因っていると言う事になるように思う。
「俺が気に入ってるあいつならこういう風に思う奴やと思うし、そう思うに違いない」という事実を、余り自分が信用していない人間から否定されたところで、自分の考えが変わるわけではないし、結局の所どれだけ自分の好きな人間を信用するかと言う話になるような気がする。
量子力学の話を無理矢理下世話な話にこじつけたのは全くの無理矢理というわけではなく、
量子論、少なくとも現在では正しいとされるエヴェレット解釈では事実を理解すると言う意味で「わかる」ことは必ずしも必要ではなく、現象を再現できると言う意味で「操作できる」ことが全てだという。
さらに、量子力学では前提としてニュートン力学のように絶対的な物理法則を超越した観測点から眺めるのではなく、量子的な力学内の観測点から量子的な現象を観測する立場を想定しなければいけない。
我々は(少なくとも俺は)とかく何事も事実関係を事実として理解しようとつとめるけど、量子論ではそんな事は重視せずに操作性だけを追求する、つまり、人間関係だろうが人生だろうが上手くいけばそれで良いのだ。
そして自分自身を絶対的な視点や観測点として物事を眺める傾向にあるけど、これは量子力学からすればそもそもの間違いなのだ。自分の曖昧さや中途半端さや一貫性の無さ以上に他人や世界を理解する事は絶対に出来ないのだ。
そういうわけで結局理解できんし信じるしかないような事に関して、誰々がああいったこういった。誰がどう思ってるこう思ってるとか、なるべく考えたり気にしたりせずにまったり生きようと思った。それ以前に観測者としての自分をしっかりさせようとも思った。
そういうわけで皆様ももちついて行きましょう。
小学校の時に「二酸化マンガン」と「過酸化水素水」の「触媒反応」から「相性が良いと仕事がはかどるので、相手を選ぶのはとても大事だ」などという人生訓を結論づけた奴がおって、なんぼムリヤリやねん。と思ったものだが、俺もそれ以上にムリヤリやな…などと思わなくもない。
でも量子力学を持ち出した事で、土偶が言ったと言うよりは、アルベルト・アインシュタインやヒュー・エヴェレットが言ったような感じがしないだろうか?そうでもない?
まぁ少なくともこんなに長々と書くような事では無かったな…

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