明日はどっちだ

人間生きていれば自己嫌悪やとか自己否定におちいる事も多々あるだろうが、基本的に俺はそういう状態に陥りやすい人間に好感を抱くタチであり、
「私は常に正しい」を前提としたり、「世界がみんな私のようなら世界は平和になるのに」とか言ってしまうような人間にいまいち好意を抱く事が出来ない。
言うまでもなく生物としての人間は自己保存本能を備えているわけであるから「利他的」なるモラリティーから外れた言動を取るのは、極端な事を言えば、他の動物を殺して喰らったり、草や木の実をむしって食べた時点で「汝殺すなかれ」 的にはアウトであるからして、突き詰めて見るまでもなく当然と言えば当然である。


人間同士で「あいつは悪い奴だ」とか「こいつはサイテーだ」などと問題になるのはその人が悪いかサイテーであるかどうかではなく、告発者や一般的な度合いから見た「悪い度」や「サイテー度」が高いかどうかを問うているわけで、ようは「程度の差」が問題になっているわけだ。
逆の言い方をすれば「悪い度」や「サイテー度」がかなり低い人間を我々は「良い人」やとか「人格者」などと呼んでいる事になる。
「悪い値」や「サイテー値」がゼロの人間などいないと言う意味で、真の意味での「良い人」や「人格者」も存在しないのは言うまでもなかろうと。
おおむね他人から見て「あいつはヒドい奴やなー」とか「こいつはもうどうしようもない」などと思われる人間は大抵自分自身の事をすばらしい人間であると思っているパターンが多いわけで、逆に殆どの他人から見て悪い人どころか良い人にしか見えないのに自分を卑下するする人も結構いる。
なんか最近心理学とか精神医学的な見地から「自分はダメな人間だ」とか「自分自身が嫌いだ」とか言うのは鬱病とかナントカ性障害とかの典型的な症例としてオススメ出来ん事のように言われるけど、俺はなかなか謙虚で偉大な認識の一つやと個人的には思うぞ。
「私は何も知らないが知っているとも思っていない」
「あなたがたの中で罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい」
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
などと昔のエラい先人たちは、いかに自分自身が至らない人間であるかをきっちり自覚しなはれと仰っておるわけで、自分は知恵者である、自分には罪がない、自分は善人である。などとのたまう偽善者を批判したのである。
とういわけで、自分自身を嫌ったり、自分自身を否定したり、自分自身を呪ったりする人間に対して、「あなた方はおおよそ全ての人間と同じように至らない人間であるけど、自分自身を厳しく見たり、厳しく評価したりした意味で他の人間より偉大である。」
と言いたい。まぁもちろん自分自身に対してもそう言ってみたいてのもあるけど、それでもただただ自己否定だけでは確かにしんどい。
某ーチェも「あなたが何を否定したのかなど、私には何の関心もない。君の目が私に告げなければいけないのは「何を目指しての否定なのか」と言う事だ。」(かなり意訳…)
と言っているように、自分を否定する事でドコを目指すのかというのがなければ、ただただ自分を無くすだけやわな。
ある人に取ってはそれがギリシャの神々への愛や智への欲求であったり、エホバへの信仰や神の国の到来であったり、阿弥陀仏の本願や浄土やったりする訳やけど、そういうものを持たない人にとっては、何を求めてドコを目指すかってのは確かに難しい。
そういう価値を自分で作ろうとする人間は傲慢と言えば傲慢やけど、真面目と言えば真面目ではないかと思う。
まぁ、結論としては、まぁ多かれ少なかれみんな悪い奴やったりサイテーな奴やねんから、自分がそうなんも大して気にする事もあるまい。と言う事になる。
とエラそうな事を言ってみた。
当初は某氏の某ブログにトラックバック予定やったけど、なんか間接的に晒してしまう事になりそうなので控えておく。
その某氏は定期的に見てくれているようなので、本人も気づいてくれるやろうかと思ふ。

2件のコメント

  • >コメント
    まぁまぁ気にせんと。いつもありがとうございますです。
    こんなエラそうなこと言ってますが、そうそう割り切るのも難しいですやね。
    どちらかというと「割り切る」というよりは、そう思ってんとやってられん。てな感じでしょうか。

  • 今更コメントしてすいません!
    しかも私ばっかコメントしててすいません・・・。
    ほんとに・・・どんな世界でもでしょうけど、割り切れたらどんなに楽だろう・・・って思います。
    私はまだまだ頭が固いんですねぇ~(;△;)

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