武装した人

今日も引き籠もって「カラ兄」を読みふける。
昨日の夜と今日の丸1日かかってちょうど半分を読み終える。
「カラマーゾフ万歳!」で幕を閉じるこの世界もたぶんあと1日で終わり。
もう半分か。と残念に思う気持ちと同時に、まだ半分ある。というちょっと嬉しい気持ちが入り交じった複雑な心境。


感想については通読してから書くので、1部から7部までの前半で印象に残った言葉を少しだけ。
かの有名な「大審問官」の章の少し前にイワンが世界と神の計画の理不尽さを述べた後に言った言葉。
「ぼくはずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、直ぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ」
続いて、ゾシマ長老が死に臨んで、庵室で同宿の僧たちに信仰のレベルでの裁きと許しについての話で出た言葉
「またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数からなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもその事を悔い悲しむような場合には、自分より他の人のことを思うて喜ぶがよい、よし自分が罪を犯したにもせよ、その代わり、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って喜ぶがよい」
信仰無しでたどり着ける場所があれば、信仰無くしてはたどり着けない場所もある。
信仰無くして決してたどり着けないように見える高みを、信仰無しで目指そうとするのは間違っているのだろうかと思う。
amazon ASIN-B0000060DBOckeghem: Missa L’homme armeを聴いた。
ゾシマ長老やアリョーシャが属していた僧院やカラ兄の宗教観はカトリック的なものとは違う、ギリシャ正教の流れを汲むものであり、カラ兄で展開されるロシア正教から見たローマカトリック批判の言わんとする事はわからんでもないけど、日本人の俺からすれば、こういうとなんだが、どちらもたいした違いには見えない。
カラ兄を読みながらこのルネサンス期の教会音楽を聴いているとトリップ以上のものを味わう。
ミサ曲に「武装した人」と言うタイトルがついているのにいつも違和感を感じていたけど、それが大天使ミカエルを指しているとすれば判らんでもない。
キリスト教的な信仰の「意」のレベルでは毎日がサタンとのある種の戦いになるわけで、象徴的な意味での「武装」が必要である事はよく解る。
まぁ、どっちにしろなんか深いところに染みこんでいくようなアカペラの和音がなんとも心地よい。

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